湖中の女
レイモンド・チャンドラー/清水俊二・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
ハードボイルドと旧来の本格推理小説とのもっともわかりやすい相違点は、探偵の殺人事件へのかかわり方だと思う。
本格推理ではまず殺人事件があって、探偵が呼び出される。それに対してハードボイルドでは、探偵が仕事──たいていは人探し──を始めてから、殺人事件が巻き起こる。もしくは過去の殺人があきらかになる。
この違いは、ハードボイルドというジャンルの性格を考える上でとても重要だと思う。なぜって、殺人事件を解決するために雇われているエルキュール・ポアロなんかとは違って、フィリップ・マーロウのような私立探偵には、殺人事件を解決する理由がないから。
彼(または彼女)の仕事はあくまで人探しであって、殺されたのが探している行方不明人その人でもないかぎり、殺人事件を解決したところで一文の得にもならない。貧乏探偵には、本職の人探しを放り出してまで、殺人事件を解決する理由がない。フィリップ・マーロウは、「よし、一発奮起してこの殺人事件を解決して、名探偵のほまれを受けてやろう」みたいな功名心に燃えたりはしない。そもそもハードボイルドの世界では、解決するのが名誉になるような不可能犯罪なんて、めったに起こらない。
それでもハードボイルドだってミステリには違いないので、結局、最後には私立探偵が殺人事件の真相を解いてみせることになる。では、なにゆえマーロウは殺人事件を解決するのか。いや、なぜに彼は解決せざるを得ないのか──。
その理由をいかに説明してみせるかこそが、ハードボイルドの肝なんではないかと思う。
本来ならば解決する必要のない殺人事件にわざわざ首をつっこみ、トラブルに見舞われながらも事件を解決へと導く私立探偵、フィリップ・マーロウ。そんな彼の行動原理を正当化するため、チャンドラーはマーロウに、従来の名探偵のような明晰な頭脳や卓越した推理力の代わりに、すれっからしの騎士道精神をあたえた。自らの世界に混乱をもたらしている悪(=犯罪)に落しどころをつけ、悩める美女や、愛する女性のために罪を犯してしまった男どもを救わざるを得ないという、本人にとっては非常に厄介で、まわりにとってはとても魅力的な性格をあたえた。
この性格ゆえにマーロウは従来の名探偵のように、事件の第三者ではあり得なくなる。彼はみずから事件に深くかかわり、関係者の痛みを共有せざるを得なくなる。そして主人公が事件に深くかかわることにより、殺人という行為が本質的に持っている悲劇としての輪郭が、よりはっきりと浮かび上がることになる。
要するにチャンドラーの功績は、トリックの創作がすべてといった印象のあったミステリの世界において、トリックの代わりに新しい人格を創作してみせ、なおかつそのことにより、ミステリを知的パズルから、正統的な悲劇へと昇華させたことにあるんじゃないかと──チャンドラーの長編四作目までを読み終えて、漠然とそんなことを思った。
いや、これってもしかしたら、昔どこかで読んだ文章の受け売りなんじゃないかという気もするけれど。
(Sep 18, 2007)