小石川近況
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更新履歴
2023-01-31 | 音 | 宮本浩次@東京ガーデンシアター『ロマンスの夜』 New! |
2023-01-27 | 音 | ずっと真夜中でいいのに。@国立代々木競技場第一体育館 |
2023-01-24 | 映 | 『エミリー、パリへ行く シーズン3』 |
2023-01-20 | 本 | 『忍者黒白草紙』 |
2023-01-15 | 本 | 『十二月の十日』 |
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宮本浩次
ロマンスの夜/2023年1月16日(月)/東京ガーデンシアター

代々木でずとまよを観た翌日は有明での宮本のソロライブだった。
長いことコンサートに足を運んでいるけれど、フェスでもないのに二日つづけて違うアーティストのライブを観るのって、もしかして初めてじゃない?――と思って確認したら、さすがにそんなことはなかった。
初めて武道館でサザンを観た日から数えて、もうそろそろ四十年。それだけ長いこと音楽ファンをしていると、コンサートが二日つづくこともたまにはある。直近だと2019年のザ・フラテリスとポール・マッカートニーがそう――って、つい最近じゃん! 忘れてんじゃないよ、俺。
本当に記憶力があやしくていけません。
さて、いきなり話が脱線してしまったけれど、今回のお題はエレカシ宮本の単独ソロライブ。それも歌うのはカバー曲という。題して『ロマンスの夜』。
なんかもう、まじめにやってんだか、笑わせようとしているのか、よくわからない。
いや、そういうところでふざけたりはしそうにないから、多分まじめにやっているんだろうけれど、なにごとにもシニカルな往年のロックファンからすると、どうにも苦笑を禁じ得ない。実際にエレカシこそ至高ってファンの中には今回のライヴをあえて見送った人もいると聞く。
かくいう僕も宮本の歌う歌謡曲にはそれほど興味がないので、いまいち気乗りがしなかった――かというと、意外とそうでもない。いつもとは違う、ささやかなわくわく感があった。
なんたって今回に関してはカバー曲だけしかやらないってあらかじめ断ってあったこと――これがもうすべてだった。
三十年以上の長きに渡って愛聴してきたエレカシや最近のソロの曲と比べてしまうと、どうしたって歌謡曲は見劣り(聴き劣り?)がするので、それらをごちゃまぜにされると、どうせならオリジナルをたくさん聴かせてよって思わずにはいられないのだけれど、この日はカバー曲しかやらないってイベントだ。最初からエレカシとソロの曲は排除されている。
ならば、ないものねだりはやめて、歌手・宮本浩次のその歌声の魅力をおもいきり堪能しよう――そんな気になる。なんたって生で聴けるのはこれが最初で最後の曲だって、少なからずあるんだろうし。エピック時代からこの人の歌を聴きつづけている俺が、こんなレアなコンサート観なくてどうする。
最初からそういう切り替えができていたので、目の前で繰り広げられる宮本浩次オンステージの歌謡ショーを思う存分楽しむことができた。
まぁ、チケットが取れなかったら取れなかったで後悔はしなかったかもしれないけれど、終わったいまとなると、生で観られて幸運だったなって思う。席も一階の真ん中より前で、なかなかよい席だったし。わがチケット運いまだ衰えず。
いやぁしかし、ほんと思った以上におもしろかった。
なんたって主役はあの宮本ですもん。
腐っても鯛――とかいったら失礼だけれど、なにを歌ったって宮本は宮本。生で聴く彼の歌のすごさは人の曲を歌っても変わらない。
この日のライブは生配信されていたけれど、テレビで観るのと生で聴くのではきっと雲泥の差んだろうなって。もしもチケットが取れずに配信で観ていたら、僕はこの日のライブをこの半分も楽しめていないんだろうなと思った。
まぁ、好きでもない曲でどれだけ盛り上がれるかというと、そこはおのずから限界はあるけれど、それでも歌われるのは僕らの世代ならば誰もが知っているヒット曲ばかりだ(僕が知らなかった曲は平山みきの『愛の戯れ』だけ)。とうぜん曲自体はメロディアスでいい曲ばかり。それを宮本があの歌声で朗々と聴かせるんだから、そこにはいつものライヴとは違った気持ちよさがあった。
あと、今回うちの奥さんが「宮本くんが歌う歌詞に出てくる女の人が好きになれない」というのを聞いて初めて気がついたけれど、僕は興味のない曲の歌詞って、ぜんぜん頭に入ってこない人間らしい。
うちの奥さんは歌のなかの女性たちの行為――偶然をよそおって好きな人をまちぶせしたり、もらったボタンをすぐに捨てたり――にまったく共感できなくて、聴いていていまいち気持ちがよくないんだそうだけれど、僕はそういう歌詞が右の耳から左の耳へ抜けているみたいで、ぜんぜん気にも留めてなかった。へー、『まちぶせ』って本当にまちぶせする歌なんだって、いまさら思ったりするやつ。
長いこと意味のわからない英語の曲ばかり聴いてきたせいで、日本語の歌も興味がないとさらっと聴き流してしまうのが習慣になっているのかもしれない。
おかげで歌本来の魅力を十分に味わえてないのではという気もするけれど、まぁそこはそれ。もともと歌謡曲の持つウェットなドラマ性になじめないからこそロックを聴いてきたのであって、いまさら宮本が歌ったからというだけで、そういう歌謡曲の世界観に涙したりしたらそのほうが怖い。
僕みたいな有り難くないファンがいる一方で、そういう歌謡曲を歌う宮本を愛してやまない中高年の女性ファンもたくさんいて――というか、どうみても今回はそういう方々こそが大多数だったから、会場の東京ガーデンシアターはいつもとは違う特別な一夜を過ごせる喜びに満たされて、とてもうきうきと楽しそうな雰囲気だった。
この日のチケットは一万二千円と、エレカシ関係ではおそらく過去最高額だったので(巨大セットと総勢二十人越えバンドがすごかった前日ライブの1.5倍!)、もしかしてビッグバンドを配したゴージャスな歌謡ショーでも見せてくれるのかと期待していたのに、いざ始まってみれば、バンドは縦横無尽のときと同じ五人組だった。あとで聞けば、あらかじめ発表されていたらしい。あらら。
ベーシストだけはなぜかキタダマキではなく、須藤優という人に替わっていたから、演奏のニュアンスは若干変わっていた――気がしたけれど、それでも基本的なところは同じ。小林武史のウェルメイドなアレンジがステージでも見事に再現されていた。
【SET LIST】
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オープニングはゴトン、ゴトンという電車の走る音をバックに、車窓を流れる灯が映し出される『木綿のハンカチーフ』のモチーフを再現したらしき演出から。電車が到着するところを音だけで表現したあと、こつこつという靴音が鳴り響き、誰かがステージへと向かってくる。
その足音にあわせて宮本が颯爽と登場――するのかと思ったら、しなかった。
足音が途切れたあと、ひと呼吸おいてバンドのメンバーがぞろぞろと登場。なんかいまいち格好がつかないけれど、それもまた宮本らしい。
で、最後に宮本が出てきて一曲目は『ジョニィへの伝言』。
――って、『木綿のハンカチーフ』じゃないんかい!
ステージ左手には背の高いフランス窓のついた洋室の壁が配されていて、その窓を通して斜めに光が差し込むというのがライブ前半の演出のキーになっていた。
序盤でよかったのは、アルバムと同じように宮本の弾き語りで始まる宇多田ヒカルの『First Love』。全体的な音が安定感抜群なので、そのなかで宮本のあのぎこちないギターを聴くとなんかすごくほっとする。
でもって、そのへたうまなギターに途中から小林さんのキーボードなどが加わって、しっかりとまとまった演奏になってゆくところがとても新鮮だった。アンコールで演奏された同じパターンの『恋に落ちて』とともに、今回のお気に入り。そういやソロで椅子に座ってギターを弾く宮本を観たのはこれが初めてだ。
その曲までマイナー調やゆっくりした曲ばかりがつづいたので、そのあとの『SEPTEMBER』とその次の『白いパラソル』の弾けるようなポップな感じが、すごく解放感があってよかった。この日のライブから一曲だけフェイバリットを選ぶとしたら『SEPTEMBER』だなって思った。
いやでも、そのあとの『化粧』もよかった。この曲はいつもよい。個人的に宮本のカバー曲の中ではいちばん好き。
中島みゆきのオリジナルは七十年代のニューミュージックだから、いま聴いたらきっと音響面でものたりなく思うんだろうけれど(とはいっても最後に聴いたのはおそらく四十年以上昔だから確かなことはいえない)、宮本のバージョンはその当時を思わせる骨太な七十年代風ロック・バラードに仕上がっているところがすごく好き。
あと、この曲は宮本がニュートラルなキーで歌えているのも好印象の一因だと思う。女性の曲ばかりだから、曲によってはキーがあわずにファルセットを使って苦しそうに歌っている曲もあるので、自然な発声で歌ってくれたほうが単純に気持ちいい。
とはいえ、ファルセットもずいぶんと使いこなすの上手くなったなぁって、この日のステージでは思った。難聴での活動休止期間をへてファルセットを使うようになった宮本だけれど、正直いまいちこなれていない感じがして、これまであまりいい印象を持っていなかったんだけれど、今回はすごくきれいに声が出ていた気がした。五十を過ぎてちゃんと進歩しているってすげーなって思いました。
前半はそのあともう一曲つづけて中島みゆきのナンバー『あばよ』を歌って終了。そういや二曲目に演奏された『春なのに』も中島みゆきの曲なんすね。中島みゆきを三曲も歌っているというのが意外だった(まぁ、ユーミンは四曲だそうだけれど)。
そのあと赤いカーテン(緞帳?)が降りて――となれば予想にたがわず――次の『喝采』が演奏されるまでに、しばらくインターバルがあった。
お色直しにしちゃずいぶんと時間がかかったから、どんなすごい衣装で出てくるのかと思ったら、たいしてかわり映えしない衣装で拍子抜け。後半はフランス窓のセットが撤去されてステージ背後にライトのやぐらが組まれていたから、単にステージの模様替えに時間がかかっただけなのかもしれない。まぁ、それにしちゃ長かった。
後半で最初に「お~」思ったのはソロではなくエレカシでカバーしたユーミンの『陰りゆく部屋』が披露されたこと。ソロ・コンサートでエレカシでの持ち歌が演奏されるのは予想外だったから、驚いたファンも多いと思う。
その次のサプライズは『ロマンス』でそれまで座ったままだった人たちが、示し合わせたようにいきなり立ったこと。いわばこの夜のコンサートのタイトル曲だから、ここは立ってしかるべきと思ったんでしょうか。「あなたお願いよ~、席を立たないで~」という歌詞にあわせて立ったといって、うちの奥さんにうけてました。
もうひとつ僕が驚いたのが次の『DESIRE』で、「ゲラッ、ゲラッ、ゲラッ、ゲラッ、バーニン・ラ~ヴ」というサビ始まりのフレーズが、アタック音の効いたバンドの演奏とあいまって、爆発的にカッコよかった。中森明菜の曲でこんなにロックを感じるとは思わなかった。これぞ宮本の真骨頂って感じでした。
本編はそのあとつづけて中森明菜の『飾りじゃないのよ涙は』をやって終了。この辺になるともうエンジンも温まりまくりで、宮本もノリノリだった。
アンコールでのクライマックスはもちろん『恋人はサンタクロース』での歌詞忘れ事件のほかにない。
これまでソロではバックがしっかりしているから、演奏をミスってやり直すエレカシではおなじみの風景がなかったのに、この曲では冒頭の一フレーズを歌ったあとで宮本が歌詞を忘れたといって、演奏を止めるハプニング。でもって再開しようとするバンドを止めて、「ごめん、思い出せない」と。
そのあとで自然発生的にお客さんたちの歌声が巻き起こったのが、僕にとってのこの夜いちばんの名場面だった。コロナ禍ではあり得なかったアットホームな雰囲気が最高だった。でもって、その歌を聴いた宮本のリアクションが「みなさんバラバラです」というのも爆笑もんでした。
結局宮本は「歌詞見ちゃおうかな~」とかいって舞台袖にひっこんで、歌詞カードらしき紙の束を手に戻ってきた。でもって歌い始めてみたものの、結局ちゃんと歌えずにごにょごにょいって失敗するというていたらく(さすがに二度目のやり直しはなし)。そこまでのやりとりがおかしすぎて、肝心の歌自体の印象がまったく残ってません。あしからず。
ちなみに宮本は歌詞を忘れたけれど、僕はこの曲の存在自体を忘れていたので、この時点でやり残した曲は『木綿のハンカチーフ』だけだと思っていた。あ、この曲もあったんだって、ちょっと意表を突かれた。季節外れだからか、見事に忘れてました。そういう意味では、去年観れていたらもっと盛り上がったのかも(この日は宮本が体調を崩して延期になった去年の公演の振替だったので)。
ということで、『ロマンスの夜』のアンコールの最後を飾ったのは『木綿のハンカチーフ』。冒頭でみせた電車の演出が演奏の前にもう一度繰り返されて、あー、あれは最初と最後をこうやってつなげるための演出だったのかと納得がいった。
この曲でおもしろかったのが、前半は小林さんのキーボードと打ち込みだけの演奏で、後半から玉田豊夢のドラムだけが入ってくるアレンジ。ギターの名越さんとベースの須藤くんは演奏が始まる前に引っ込んでしまっていた。この曲ってこういうアレンジだったのかと目から鱗でした。
――というようなことをですね。前回の感想でも書いてました、俺。ほんと記憶力がねぇ……。
以上、アルバム『ROMANCE』と『秋の日に』の十八曲に加え、『縦横無尽』収録の『春なのに』(このアルバムに入っているのを忘れていた)、松本隆トリビュート盤に提供した『SEPTEMBER』、エレカシでカバーした『陰りゆく部屋』の三曲を加えた、全二十一曲。
これまでに宮本がレコーディングしてきた他人の曲をすべて網羅した、まさに宮本浩次カバー・コンサートの完全版と呼ぶにふさわしい『ロマンスの夜』でした。
――って、もちろんそこで終わるはずがない。
注目の二度目のアンコールで演奏されたのは、ソロ活動のデビュー曲『冬の花』。
宮本自身の楽曲の中でももっとも歌謡曲色の強いこの曲は、まさにこの日のとりを飾るのにふさわしかった。ワンコーラス歌うごとに間奏で拍手が巻き起こるのも、これぞまさに歌謡ショーって感じで僕は好きでした。
その曲で終わっても誰も文句はいわなかったと思うんだけれど、宮本はそのあとにとっておきのサプライズを用意していた。
ということで、この夜の大とりを飾ったのは、本ツアー初披露の沢田研二のカバー『カサブランカ・ダンディ』!!
あえて女性の歌ばかりを歌ってきた宮本が、この夜の最後を、僕らの少年時代の歌謡界ナンバーワン・ヒーローの曲で締めてみせたのが最高だった。
沢田研二の歌を歌う宮本は、女性たちの曲をカバーしているときとは打って変わって、これまでになくやんちゃそうに見えた。
ということで、以上をもってして『ロマンスの夜』は全編終了~。最後に「もう一曲聴きたいですか」みたいに観客を煽っておきながら、「練習してないんで、できません」と笑いを誘って宮本は去っていった。
そういや、縦横無尽ツアーのバンド・メンバー三人とはハグしたのに、ベースの須藤くんとは握手だけってあたりも宮本らしかった。
でもあそこは全員ハグがいいと思うよ。
(Jan. 29, 2023)
ずっと真夜中でいいのに。
ROAD GAME『テクノプア』~叢雲のつるぎ~/2023年1月15日(日)/国立代々木競技場第一体育館

『テクノプア』のツアー終了後に年を越して開催された2デイズの特別公演『
いやしかし。今回のライブはセットがすごかった。ずとまよのアリーナ規模のライブはいつでもすごいけれど、ビジュアルのインパクトは過去最大だったと思う。
だって平屋建てのゲームセンターの屋上に超巨大な剣がぶっ刺さってんだよ? たぶん全長十メートル超え? で、そこに電飾であしらった雷がゴロゴロと落ちてくる。
まぁ、要するにライブの告知イラストそのまんまなんだけれど、誰がそんなものを実物化しようかって話だ。――ACAねとずとまよスタッフ以外のいったい誰が。
ゲームセンターの建物とか、電柱とか、曲名が表示されるモニターとか、基本的なセットは『テクノプア』ツアーを踏襲したものだったけれど、そこに巨大なつるぎが刺さって雷が絡みつくビジュアルのインパクトが絶大。これを見ずしてずとまよは語れまいという、ずとまよ史上に残る傑作ステージセットだったと思う。
で、今回すごいのはセットのみならず。バンドも。
これまでもツイン・ドラムはけっこうあったけれど――というかいまや定番?――この日はギターとキーボードもツイン(もちろん村☆ジュンとコジローくんもいる)。で、弦楽四重奏にホーンが三人、オープンリール・チームも当然のごとく吉田兄弟にTVドラムの和田永を加えたフルセット。さらには準レギュラーの津軽三味線の小山豊も仲間入り。
ドラム、ギター、キーボードが二人ずつなのに、ベースだけはひとりなのかと思っていたら、途中のサブステージでのアコースティック・セットでは、メイン・ステージにはいなかった川村竜がウッドベースを弾いていた。
川村氏は『果羅火羅武~』のときと同じように、今回も開演前にステージのどこかに出てきてアーケイドゲームのプレイ生配信をやっていたから、きょうはまさかゲームのためだけに呼ばれたのかと思っていたら、さすがにそんなことはなかったらしい(蛇足だけれど、ゲームのときは川村竜ではなく、ミートたけし名義らしい。「ビート」ではなく「ミート」)。それにしても余興とサブステージの数曲のために、どこぞで最優秀賞をもらったというベーシストを呼んできちゃうずとまよって……。
ま、なんにしろ、そんなわけでこの日のすとまよはメイン十九名+サブ一名の総勢二十名という大所帯だった。ただでさえ最強のずとまよナンバーがこの人数で演奏されるんだから、そんなの最高以外のなにものでもない。
そもそもオープニングが小山氏の三味線のソロから――つづいてドラムの人が鞄をぶらさげて現れ、鞄のなかに詰まった謎の打楽器(なのかな?)で即興演奏を聴かせる――ってあたりが、ずとまよの音楽性の高さを象徴していた。なんてマニアックな。
さらにはその演奏のあいだに派手な格好をした書道家の先生みたいな人が出てきて、書初めのパフォーマンスを披露する。遠すぎて何を書いたんだかわからなかったけれど、たぶん「叢雲うんたら」なんでしょう。いろいろおもしろすぎる。
セットリストは『テクノプア』の流れを踏襲しつつ、要所要所で変更されていた。
そもそもオープニング曲が違う。ツアーのオープニング曲『マイノリティ脈絡』――これまで僕が観たライブでは必ず演奏されていた――がこの日はカットされていて、かわりに一曲目を飾ったのは『サターン』だった。
建物の屋上にピンク色っぽい巨大なマカロンみたいなものが置いてあったから、あれはなんだろうと思っていたら、その中からACAねが出てくる。でもってギターの弾き語りで歌い出したのが『サターン』。
あ、あのピンクのやつはもしかして土星か――ってそこで初めて気づきました。
【SET LIST】
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『サターン』から『MILABO』『居眠り遠征隊』とつづいた冒頭の三曲はどれも短めだった――気がする。かといってメドレーというほどつなぎがスムーズではなかったので、なんかどれも短縮バージョンでさくっと終わった感じ。
ツアーとの違いはこのオープニングのメドレーコーナーと、四曲目ではやくも『お勉強しといてよ』がきたこと(惜しみなさ過ぎて残念なくらい)、中盤のしゃもじコーナーが『彷徨い酔い温度』ではなく『雲丹と栗』だったこと、ガチャのコーナーのかわりにサブステージでのアコースティックセットがあったこと。そして本編の締めが『残機』だったこと等々。
このうち個人的に最大の失敗をしたのがサブステージでのこと。
サブステージはメインステージの真正面、アリーナの反対側に設営されていて――アリーナのうしろのほうにいた僕はそのときまでその存在に気づかなかった――要するにメインステージに背を向けて観ることになったわけだけれど、驚いたことにこの時にアリーナ後方にいた観客が全員坐ってしまったんだった。
え? 坐るったって、椅子の背もたれのほうを見てんだぜ? ふつうに座ったら身体を百八十度ひねらなきゃ見れない。そんな不自然な姿勢をして座りますか、普通?
少なくても僕の選択肢には座るという選択肢はなかった。おそらくずとまよ以外のライブならば坐る観客のほうがレアだと思う――というか、ふつう座らないよね?
ずとまよのライブって観客の座る・立つのタイミングが僕の感覚とずれているのがなによりの難点で、いつもはまぁ仕方ないかとまわりにあわせて座っていたんだけれど、このときはそのあまりに不自然な状況での同調圧力の強さにイラっときて、つい座らずにそのまま二曲を聴いてしまった。そしたら三曲目が始まる前にうしろの男の子におずおずと背中をつつかれて「坐ってください」としぐさで促されたので、ここでごねるのも大人げないなぁって、素直に座りました。ごめんよ若者。
でもまじであれはないよ。不自然すぎる。僕は一曲だけで首が痛くなったし、僕の前のカップルはその体勢が我慢できなくなったらしく、僕が座ったあとで椅子を降りてフロアに正座していた。そんなのどう考えたって不自然でしょう?
ACAねがMCで「なにも強制はしないので好きなように自由に楽しんでください」みたいなことをいっているのに、この無個性な均一性はいったい……。
まぁ、そんなことがあったせいで、そのあとはうまく気持ちの切り替えができず、もやもやした気分を引きずってしまい、いまいちライブに集中できなくなってしまった。あぁ、若い子たちの同調圧力に流されて素直に座っておけばよかった……。
この日のライヴはカメラが入っていて、後日配信されることが発表されたので、あんなところでひとり立ってたら下手したらカメラに映っちゃうじゃん!――ってあとから気がついて、二重に後悔しました(目立つの嫌い)。
でもまぁ、立って観た『正しくなれない』と『Dear Mr「F」』の二曲は、ステージも近かったし、視野を遮るものがひとつもないこともあって絶景だった。空気を読まないせいで、いいもの見れてしまった。
そのほかでもうひとつ、ささやかながら残念だったのは『勘冴えて悔しいわ』がこの日も短縮バージョンだったこと。冒頭のメドレーではなく、中盤で披露されたから、おぉ、ひさしぶりのフルコーラス!――かと思ったら、この日もやはり二番がはしょられてました。あぁ、なんでさー。
まぁ、一番のあとブレイクを挟んでブリッジのメロディーに突入するアレンジ自体はとてもカッコいいと思うけれど。たまには本当にフルコーラス聴かせて欲しいです。そういや、キーボードがふたりいるからツイン・ピアノの『低血ボルト』が聴けるかと思ったのに、やってくれなかったのもこの日の残念ポイントのひとつ。
逆によかったのは、ACAねがステージに刺さっていた剣を抜きとって、稲光が落ちる中でそれを振り回しながら歌った『残機』、アンコールでの『胸の煙』からのまさかの『過眠』、ゲストのバーチャルYouTuber、Mori Calliopeをフィーチャーした(この日もっとも楽しみにしていた)『綺羅キラー』など。どれもレア感たっぷりの素晴らしいパフォーマンスだった。でも先程の「座ってください事件」のせいでいまいち集中しきれず。ちっくしょー。
そうそう、『正義』での恒例のシャウトが、この日はフジロックと同じ「ジャスティース!」だったのもこの日のトピック。単にタイトルを英語にして叫んでるだけなのに、なんであんなにコミカルで可愛いんだろう。
最後は『あいつら全員同窓会』で締め――と思わせておいて、再登場して『サターン』のアウトロのインスト・パートだけ聴かせた演出もよし。『サターン』で始まり、『サターン』で終わる。――これぞまさに大団円。とても気がきいていた。
あと、規制退場のときに振り返ったら、BGMだと思っていたジャズ・ナンバーが、サブステージの五人バンドによる生演奏だったのにもびっくり。本当に最後の最後まで楽しませてくれる。心底素晴らしいライブだった。
会場の外では、特製おにぎりを売っていたり、カードゲームで遊べるコーナーがあったり、うにぐりとの撮影会が開かれていたりと、単なる一アーティストのライブとは思えないような文化祭的アミューズメント空間が作り上げられていた。観客を少しでも楽しませようという姿勢の徹底ぶりがほんと素晴らしい。
ここまできたら、次はもうドームでもいけちゃうんじゃないだろうか。アリーナでこれほどな人たちがドームを舞台にしたらどんなすさまじいことになってしまうのか、いまいち想像がつかないけれど。
いまの個人的なささやかな願いは、ずとまよの観客にもっと普通の音楽ファンが増えて、僕のストレスにならないタイミングで立ってくれること――なんて、そういうつまらないことをつべこべ考えずに心から楽しめるよう、願わくばオールスタンディングの会場で観たい。もしも願いが叶うなら、いまいちばんの願いはそれかも。
(Jan. 23, 2023)
エミリー、パリへ行く シーズン3
アンドリュー・フレミング監督・他/リリー・コリンズ/2022年/Netflix(全10話)
新型コロナの後遺症なのか、はたまた単なる寄る年波の経年劣化か。
この年末年始はまったくやる気がなくて、一週間の正月休みに自宅で観たのはこのドラマ(一シーズン分)だけだった。
これを観たのも好きだからというより、難しいことを考えず、ただひたすら気楽に観られる作品がよかったから。一話三十分足らずで全十話だから、全部観てもだいたい四時間。長い映画と違って話の切れ目で気楽に休めるし、長すぎず短すぎず、ちょうどいいボリュームだった。
さて、前シーズンの最終話で大きな人生の岐路に立たされたエミリーがどのような選択をするのか――というのが今回の要注目点だったわけだけれども、まぁその結果はおのずからあきらか。それでも序盤の数話で描かれたその顛末はいささか意外だった。結局なんも変わってないじゃん!――という意味で。
いやもとい。エミリーの髪形は変わった。開始早々なぜだか知らないけれど突然鏡に向かって髪を切って、ちょっとだけイメチェンした。前髪を作ったことで印象的だった濃い眉の印象が薄れたせいか、可愛さが倍増した気がする。なんとなくオードリー・ペップバーンっぽくなった。
物語は前回からつづくエミリーとガブリエル、カミーユ、アルフィーの四角関係に加え、今回はエミリーの同居人ミンディー(アシュリー・パーク)や上司のシルヴィーの恋愛関係もけっこう時間を割いて描いている。
おかげで、こと恋愛に関しては今回は主役がいちばんおとなしめ?――と思っていたら、最後にいきなり思わぬ爆弾が。おいおい、そりゃないのでは。
でもとりあえず次のシーズンで完結しそうな感じにはなってきた。次ですっきりきれいに終わってくれると嬉しい。
(Jan. 22, 2023)
忍者白黒草紙
山田風太郎/KADOKAWA/Kindle
去年最後に読んだ本。
ひさしぶりの忍法帖だけれど、これが一年の締めってのはどうなんだと思ってしまうような作品だった。
初出時のタイトルは『天保忍法帖』だったそうで、その名の通りに天保の改革がテーマとなっている。江戸町奉行としてその改革を推し進めた鳥居耀蔵のもと、改革の邪魔になる人たちを排除する役割を与えられた忍者・
これがほとんどすべてセックス絡みの話ばかり。成金商人の後妻に入った美女が性奴隷になりさがるところを天井裏から覗き見するところから始まり、歌川国貞は春画を書くために女中を輪姦させようとし、大奥の女性たちは密かに寺の坊主と乱交していたりする。その他あれやこれや(書くのが居たたまれないので大半は割愛)。
出てくる忍者はふたりだけなので、忍法帖の代名詞というべき、忍者どうしの奇妙奇天烈な忍法バトルもない。
さすがにこれを忍法帖と呼ぶのは違うと思った――のかどうかは知らないけれど、角川文庫収録時に『忍者黒白草紙』というタイトルに改題されたらしい(僕はタイトルが「忍法」ではなく「忍者」であることに最初のうち気づかなかった)。
この作品には主人公の箒のほかにもうひとり、彼の親友という設定で、塵ノ
冒頭で
なぜ一介の忍者に過ぎない彼がそうなったのか説明は皆無だから、そんな彼が物語をひっかきまわす終盤の展開にまったく納得がゆかないし、主人公が苦しんでいる一方で、これといってなにもしていない彼が美しい女性たちに愛されまくっているという展開はどうにも釈然としない。やはりこのキャラの存在をきちんと説明できていないのが本作の欠点だと思う。
天保の改革と、その時代に生きた実在の人物らを、忍法帖ならではの脚色で描くというアイディア自体がおもしろいだけに、この出来映えはどうにも残念だった。
(Jan. 14, 2023)
十二月の十日
ジョージ・ソーンダーズ/岸本佐知子・訳/河出書房新社
初めて読むテキサス州生まれのアメリカ人作家の短編集。
この単行本の帯には翻訳家の岸本佐知子さんの「これほど親しみやすく、これほど共感を呼び、そしてこれほど笑わせてくれる小説家は、ちょっと他にいない」という、あとがきの一節が引用されている。
でも、意義を唱えるようで恐縮だけれど、僕にはこの本はそれほど親しみやすくなかったし、それほど共感も呼ばなかったし、そしてほとんど笑えなかった。
昨今のアメリカ文学のつねで、この短編集で描かれるのは人生の落後者か、落伍者とはいえないまでも成功とは縁のない人たちばかりだ。それぞれに問題を抱えた人たちが、なんらかのトラブルに見舞われて難儀するという救われない話ばかり。決して嫌いではないのだけれど、これのどこに笑いを見い出せと?
まぁ、ウディ・アレンの『マッチポイント』や『夢と犯罪』などの暗いテイストのクライム・コメディと同系統といえばいえなくもないので、読む人が読めば笑えるのかもしれない。少なくても僕には無理だった。
なのでいまいち乗り切れなくて、なかなかページを繰る手がはかどらなかったのだけれど――。
最後の表題作『十二月の十日』、これは掛け値なしに素晴らしかった。これまでに読んだ短編小説のうちで十本の指に入る。これ一編だけでもこの本を読む価値あり。
あまりによかったのであらすじとか書きません。ネタバレ厳禁で、なにも知らずにゼロから読むべき逸品。
タイトルの『十二月の十日』にあやかって十二月に読み始めたのに、一か月遅れで年が替わってから感想を書いているのは不徳の致すところです。
(Jan. 14, 2023)