Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『日出る国の工場』 村上春樹・安西水丸
  2. 『果樹園の守り手』 コーマック・マッカーシー
  3. 『荒木飛呂彦の漫画術』 荒木飛呂彦
  4. 『幕末』 司馬遼太郎
  5. 『二人称』 n-buna
    and more...

日出る国の工場

村上春樹・安西水丸/新潮文庫/Kindle

日出る国の工場(新潮文庫)

 村上春樹と安西水丸のおふたりが日本各地の工場を見学して歩き、水丸氏のカラーイラストを添えて紹介したエッセイ集。

 今回読む予定の村上春樹の作品ではこれがいちばんおもしろそうだと思っていたのだけれど、いざ読んでみたらそうでもなかった。内容的にはとても刺激的で好奇心をかきたてられる部分も多々あったものの、初期の春樹氏のエッセイが苦手な僕には、やはりその書きっぷりがしっくりこなくて、いまいち楽しくなかった。とくに序盤は。

 最初の人体模型工場は超イレギュラーな商品なので、まぁいいとして、引っかかったのはその次の結婚式場を「工場」的なものとして紹介する二編目。新郎新婦の過去の性体験をあからさまに書いているのを見て驚いた。え、結婚前にそんなこと正直に話す新郎新婦なんている? いきなり胡散臭いんだけれど。

 ただでさえ、自身は結婚式をあげていないし、知人の結婚式に出席さえしないと語っている人が、野次馬的な姿勢で結婚式場を取材して、それを「工場見学」のひとつに位置付ける姿勢も厭味ったらしく感じられてしまった。

 つづく消しゴム工場の話も、材料の科学的な説明の難しさに「しくしく」を連発するユーモアのたぐいが僕にはしっくりこなかった。

 ただ、序盤のそこらでつまずいて、悪印象を持ってしまったわりには、その後の工場――牛乳、コム・デ・ギャルソン、CD、アデンランス――ではとくに鼻につくようなところもなく――いや、なくはなかったかもしれないけれど、少なくても記憶に残るほどではなく――興味深く読むことができた。なので後半はずいぶん持ち直した。

 すでに四十年前の本なので、工場自体の技術はずいぶんと古い。なんたってCDが当時最先端のデジタル技術なんだから。それでもCDのすごさを表現するのに「野球場の広さに0.5ミリの砂を記号としてびっしりと並べたようなもの」みたいな具体的なサイズ感がわかる説明があるのには感心した。

 なかでもいちばんインパクトがあったのは小岩井乳業。「小岩井」が小野・岩崎(三菱創業者の弥太郎)・井上の頭文字を並べたものだというトリビアにびっくりしたのに始まり、酪農工場での牛の「経済動物」としての生々しい生態には、なんとも言葉で表しにくいものがあった。心の平静を守るには牛乳も牛肉も口にしないほうがいいんじゃないかって思ってしまった。ベジタリアンやヴィーガンになる人たちにちょっとだけ共感した。

(Apr. 27, 2026)

果樹園の守り手

コーマック・マッカーシー/山口和彦・訳/春風社

果樹園の守り手

 いやぁ、コーマック・マッカーシーは最初から手強かった。

 春風社という馴染みのない出版社から刊行されたこのデビュー作。

 ただでさえフォークナー的な意識の流れの手法で書かれていて、読み砕くのが大変だったのに、さらにあまり見慣れない二字熟語がたくさん出てくる翻訳も読みづらく、校正が甘いのか、誤字だと思われるところがあったりと、不幸な要素が重なって、やたらと難儀した。正直、どういう物語なのかも説明できない。

 物語の中心にいるのは、マリオン・シルダーという男性に、ジョン・ウェスリーという少年、あとアーサー・オウェインビーという老人。この世代の違う三人の話がいったりきたりしながら語られてゆく。

 いちばん出番が多いのはシルダーだと思うけれど、この人がどういう人物なのか、いまいち僕にはよくわからない。密造酒を運んでいる途中で事故を起こしたりするので、まともな一般人ではないのはわかるんだけれど、ではどういう経歴の人?――と問われても答えられない。

 あとのふたりの名前も書いたけれど、彼らは大半が「少年」と「老人」と表現されていて、匿名性が高い。老人の名前なんて、数回しか出てこないんじゃないだろうか。

 タイトルの『果樹園の守り手』は老人を示しているらしいけれど、その老人の名前さえはっきりしないというね。そもそも老人のいる場所がほんとに果樹園なのかもわからない。駄目すぎる。ほんと、全体的に緻密な描写がつづくのに、物語自体は曖昧模糊としていてなにが語られているのかよくわからない。僕には手強すぎた。

 そういう意味で、これは本当にフォークナーっぽい作品だと思った。これまでにマッカーシーの作品を読んでフォークナーを連想したことはなかったんだけれど、これは確実に南部文学の流れを汲んだ作品という感じだった。

 なぜ?――と思ったら、コーマック・マッカーシーって、ロードアイランド出身だけれど、子供のころに親がテネシーに引っ越して、アメリカ南部で育ったんですね。何冊もその作品を読んでいるのに、まったく知らなかった。

 とりあえず今回で全体像はつかんだので、これについてはいずれ再読して、きちんとディテールを把握したいと思います。今回はとりあえず読んだだけ。そんな作品。

(Apr. 18, 2026)

荒木飛呂彦の漫画術

荒木飛呂彦/集英社新書/Kindle

荒木飛呂彦の漫画術【帯カラーイラスト付】 (集英社新書)

 漫画家・荒引飛呂彦が、自らが王道だと語るマンガの書き方について説明したハウツー本。

 荒木さんの語るところの「王道」はあくまで週刊少年ジャンプ的なマンガのそれで、『ジョジョの奇妙な冒険』ほかで、それをいかにして実践してきたかを、つまびらかに解説してくれている。マンガ家を目指す人にとっては、一読の価値はある作品でしょう。

 まぁ、逆にマンガを描いてない人間にとっては、そこまで響くところがないというか、あくまで少年マンガの王道にスポットしているので、創作論としてはやや偏った内容になっている。僕には野次馬的な読み方しかできなかったので、内容的には映画を語った前の二冊のほうがおもしろかった。

 それにしても、ワンアンドオンリーな作風を誇る荒木先生が、自らの作品を少年マンガの王道だっていいきっているのがすごい。でもってその王道を実現するために、システマティックな努力を重ねてきたところがなおすごい。

 「人気マンガ家になる」という夢を叶えるため、漠然とした試行錯誤を重ねるのではなく、きちんと現状を分析して、それに対して行動を起こすことで、一歩ずつ作品を進化させてきたからこそ、いまがあるというのがわかる。

 『ジョジョの奇妙な冒険』を読めば、その連載期間を通じて、荒木飛呂彦という人がマンガ家としてどれだけの成長を遂げてきたかは一目瞭然だ。多くのマンガ家はその長期の連載期間を通じて成長してゆくものだけれど、荒木さんほど劇的な変化を遂げた人はなかなかいないと思う。

 なぜ荒木飛呂彦が特別な存在たり得ているのか――その理由を本人が端的に教えてくれているのが本書。荒木ファンには必読の一冊。

(Apr. 15, 2026)

幕末

司馬遼太郎/文春文庫/Kindle

幕末 (文春文庫)

 「暗殺だけは、きらいだ」とおっしゃる司馬遼太郎先生が、あえてその暗殺にまつわる幕末の数々の事件を描いた短編集。

 一遍目の『桜田門外の変』での井伊直弼の暗殺から始まり、清川八郎が殺され、陸奥宗光が坂本龍馬の仇討に加わり、そのほか大半は僕なんかは知らない人たち――でも明治の代に生きながらえて名前を残した偉人たち――による人殺しの話がつづいてゆく。その数、じつに十二編。

 司馬先生の作品って比較的温厚な印象があるのだけれど、これはそんなだからやたらと血生臭かった。

 体裁はフィクションだけど、いちおう史実にはのっとっているわけでしょう? 明治の世がこんな流血沙汰の果てに成り立っていて、しかも人殺したちがそのことで栄誉を得て、伯爵だなんだと持ち上げられていたと思うとなんともいえない。

 司馬文学では歴史的偉人たちがその威厳をはく奪される傾向が強い印象があるけれど、この本では多くの明治の偉人たち――とくに印象的だったのは桂小五郎、伊藤博文、井上薫あたり――が、けんもほろろな扱いを受けている。

 なかでもいちばんめだっているのが田中顕助という人。いくつかの短編に繰り返し登場するこの人――のちの田中光顕伯爵(知らない)――は、たまたま運がよくてに新政府に取り立てられて出世しただけの、とくになんの大義も才能もない凡人、みたいな、とほほな書かれ方をしている。

 こんなこと書いて子孫の人たちの非難を受けたりしないんだろうか?――とちょっといらぬ心配をしてしまった。

 まぁ、司馬先生はその人の残した『維新風雲回顧録』という本に解説を寄せているみたいだから、そこでもしかしたら田中氏本人が自らの人生を自虐的に語っていたりするのかもなとか思ったりした。

 とりあえず血生臭くはあれど、いろいろ興味深い事件が多くて、読みごたえのある本でした。

(Apr. 05, 2026)

二人称

n-buna/講談社

書簡型小説「二人称」 ヨルシカ

 書簡小説はたくさんあるのに、実際に封筒に手紙を入れた形で出版された作品がひとつもないのはどうしてだろう?――と思ったヨルシカのn-bunaくんが、ならば自分で作ってやろうと書きおろした異色作。

 いざ作ってみたらあまりに製造コストがかかってしまって、なるほどこれでは誰にも作れないはずだと納得したらしいですが。本人が出版業の部外者だからこそ実現できたと語る怖いもの知らずな逸品。

 ものとしてはヨルシカのデビュー・アルバム『だから僕は音楽を辞めた』の初回限定盤についてきた手紙や写真の入った紙箱、あれをもっと本格的に展開して、音楽とは切り離した単品の作品に昇格させたよう作品だと思う。

 アルバム『二人称』の新曲の歌詞がすべて収録されているので、異色の歌詞カード的な楽しみ方もできる。ときにはワンフレーズに五線譜がつけてあったり、書き直したり反故にした部分もあって、n-bunaの創作の過程を垣間見られる点も興味深かった。

 物語は「無料で文章の添削をします」という広告をみた引き籠りの少年が、自作の詩を送って批評を依頼したところから始まる「先生」との往復書簡を、実際の封筒に入れて形にしたもの。

 やりとりは全部で三十二通。それが原稿用紙とその返信の便箋や同封された写真(実物ではなくそれ風のカード)と一緒に個々の封筒に入っている。

 手紙といっても少年が使っているのは原稿用紙だから、ふつうの手紙とはいえない。

 原稿用紙は一枚ずつ六折りにして重ねて封入されている。製本(?)の都合でこういう形になっているんだろうけれど、ふつうに考えると、封筒に入れる際には、原稿用紙なり便箋なりを束ねて折るものだから、モノとしての体裁は決してリアルに現実を再現できているわけではない。

 なので実際に読むとなると、封筒から出した手紙を一枚ずつ開いて読んでたたんで戻して、開いて読んでたたんで戻して、という形になる。

 そんな風に読むのは不自然な上にリズムが悪い気がしたので、僕は三通目くらいからは封筒から出したあと最初に全部開いて束ねてから読むようにした。そのほうが手紙を読んでるっぽくなるので。

 そもそも封筒に宛名とか書いてなくて、連番と日付が振ってあるだけってのも不自然じゃん?――という疑問にはちゃんと最後に答えが用意されている。その辺はさすがn-bunaくん。用意周到というか、仕掛けは上々、仕上げをご覧じろって感じ。

 いざ読んでみると、この形にしたからこそ味わえるサプライズがいくつも仕掛けてあるのがすごい。最初は往復書簡になっているのに、途中から返信がないものがつづいたので、どうしたのかと思ったら、そのあとにどっきり的な返信があったりする。全体としては純文学的なのに、その部分にはある種のサスペンスみたいな味わいがあった。

 手紙はすべて手書で、おそらくn-buna本人が書いているんだろう。往復書簡だから二人分を、筆跡を変えて、文字を色違いにする工夫も凝らしてある。

 書簡小説を実際に手に取れるリアルな形で提供するというコンセプトをこういう形で実現して見せた着想と行動力には脱帽するしかない。

 そもそも僕は「書簡小説なのになんで実際の手紙の形にしないんだろう?」なんてこれぽっちも疑問に思ったことがなかったし、原稿用紙にはひとマスに一文字を書くのが当然だと思って疑ったことがなかった。

 ところが、n-bunaは「原稿用紙が高いので枚数を節約したいから」といって、四百字詰めの原稿用紙にマス目を無視して自由に文章を書く。そういう常識に縛られない姿勢があってこそ、こういう作品が生まれてくるわけだ。

 節約したいならわざわざ原稿用紙なんて使わなきゃいいじゃん――という話は野暮だからなし。あえて原稿用紙を使うことに、ものを書く人間としての矜持や美学があるはずだから。

 この物語のなかで引用癖のある主人公の文学少年は、謎の年配者との書面での交流をへて、徐々に詩人として成長してゆく。

 引用というのは、対象となる作品の内容をみずからのうちに取り込んで、自分のものとしているからこそできる行為だろう。この作品に限らず、ヨルシカの音楽にも、彼が影響を受けてきた数多の作品の影響がみてとれる。

 それをきちんと昇華して、こういう作品の形にまとめあげてみせる才覚と労力には感心するしかない。読んだ本の内容をかたっぱしから忘れてゆく僕のような男にはとうてい真似ができない(これを読んで僕は自分の人生の最大の問題はこの記憶力のなさと学習能力の低さだなといまさらながら思った)。

 いやしかし、封書が三十通以上たばねられているので外箱がでかい(LPサイズ)。わが家は収納スペースに難ありなので、読む前には、いずれふつうの本としても再販されるかもしれないから、それを待とうかなとか思っていたんだけれど、活字にしたら作品の本質が失われてしまうから、n-bunaが出版を認めないかなと今は思う。

 いずれにせよ、本として読んだとしたら伝わらないニュアンスこそが肝って作品なので、興味があったらぜひ一度手にとってみて欲しいと思います。ちょっと高いけれど、一読の価値はある。

(Apr. 4, 2026)