Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『忍法相伝73』 山田風太郎
  2. 『プレイグラウンド』 リチャード・パワーズ
  3. 『海と毒薬』 遠藤周作
  4. 『薬屋のひとりごと16』 日向夏
  5. 『草の竪琴』 トルーマン・カポーティ
    and more...

忍法相伝73

山田風太郎/講談社/Kindle

忍法相伝73 (ROMANBOOKS)

 忍法帖シリーズの長編で唯一、これまでに一度も文庫化されたことがない、わけありの作品。

 文庫化されていないってことは、要するに風太郎先生が読まれることを望んでいなかったってことなわけで。

 2013年に単行本化されているけれど、ほかの忍法帖は文庫本しか持っていないのに、そういう作品をわざわざ単行本で所有する気になれずにスルーしてしまった。最近になってものすごく昭和レトロな表紙がついたKindle版が出ているのを見つけて、ようやく読むことができたわけだけれども……。

 なるほど。これは駄目でしょう?

 というか、そもそもこれは忍法帖ではないのでは?

 タイトルに「忍法」とはあるけれど、「73」というアラビア数字がついていることで予想がつくように、舞台は現代だ。

 「忍法帖」の「帖」は暗黙のうちに時代劇を意味しているのだろうから、時代劇ではないこの小説をシリーズとしてカウントするのは間違っている気がする。内容的にも、これをあの一連の傑作群に加えるのには、心理的な抵抗を感じてしまう。

 物語は昭和のいまを生きる若者が、先祖が書き残した忍法の覚え書きに従ってみたところ、本当に忍法が使えてしまいましたというナンセンス・コメディ。作風的には忍法帖というよりは『男性週期律』あたりに近い印象だった。風太郎先生らしいシニカルな視点から生み出された、社会風刺に満ちた馬鹿話。

 もともと1964年に発表した『忍法相伝64』という短編を膨らませて連作長編化したものだとのことで、長編化にあたって数字がなぜ「73」に変わったのかは不明。物語的にはこの数字は西暦とは関係がなくて、忍法書に書かれた七十三番目の忍法を最初に使ったのがその名の由来。その後も各章は「忍法相伝85」、「忍法相伝99」と数字の部分をカウントアップしながら進んでゆく。

 試される忍法はどれも荒唐無稽なだけではなく、とても馬鹿らしくて下品なものばかりだから、わざわざ書き残そうって気にもなれない。クライマックスで序盤の伏線を回収したどんでん返しがあるけれど、最後の落ちときた日には脱力ものだ。なにそれ? まるでコントじゃん。

 いやぁ、これは文庫化したくなかったのもわかる。風太郎先生、若気の至り。悪ふざけにもほどがある。山田風太郎の長編ワースト部門に入ること確実な一冊。

 まぁ、そんなわけで内容には感心しなかったけれども、昭和の世相を色濃く反映している点は一興だった。山登りした先のゴミの多さに国民の道徳意識の低さを嘆くあたりには、外国人に国の清潔さを絶賛されている令和の現代とは隔世の感があった。

 とりあえず、忍法帖シリーズもほぼ読みつくして、残すところあと一冊。これがその最後の一冊なんてことにならなくてよかった。

(Dec. 29, 2025)

プレイグラウンド

リチャード・パワーズ/木原善彦・訳/新潮社

プレイグラウンド

 リチャード・パワーズ三年ぶりの最新作。

 今回の作品では時系列の異なる三つの物語が同時進行で語られてゆく。

 メインとなるひとつめの舞台はマカテア島というポリネシアの島。かつてはリン鉱石が取れたことで栄えたものの、資源の枯渇とともに衰退(ここまでは実話)。現在は過疎化して、住民が八十人くらいしかいないこの島に、新たな開発事業の話が持ち上がる。その是非をめぐる住民投票の顛末が、群像劇として、最新時間軸で描かれる。

 ふたつめはその島で子供ふたりと暮らすアメリカ人夫婦、ラフィ・ヤングとイナ・アロイタ、そして彼らとかつて親密な関係にあったIT長者、トッド・キーンの物語。

 貧乏家庭に生まれた黒人のラフィと大富豪の息子トッドがいかに知りあって親友となったか、ポリネシアからの留学生だったイナとラフィが出逢ったことから、彼らの関係がどのように変わっていったかが、認知症が進行しつつあるトッドの回想談として、一人称で語られてゆく。

 最後はトッドが幼いころに憧れた女性海洋生物学者、イーヴリン・ポーリューの話。この人も現在はマカテア島の住人で、海で死ぬのが本望とばかりに、九十二になってなおスキューバダイビングに精を出す元気なお婆さん。女性学者の先駆けとして道なき道を歩んできた彼女の波乱に富んだ人生が幼少期までさかのぼって綴られている。

 博覧強記なパワーズのことだから、海洋生物学やAIや囲碁の話など、ディテールの蘊蓄うんちくもたっぷりだけれど、とにかく以上の三つの物語がどれもおもしろい。

 まぁ、それらが最後にどのように結びついてゆくのかと思っていたら、「え、それってあり?」と思うような落ちがつくのには、ちょっとだけ釈然としなかったけれども。

 それでもかつての作品ほどの難解さはないし(まぁ、だからといってすべてが理解できたといえないところが情けない)、読み物としてはとても楽しめました。

 きちんと読み取れなかった点も多々あったので、これはいずれ再読しないといけない。――というか、パワーズの作品はすべて一度といわず何度でも読み直したい。

(Dec. 18, 2025)

海と毒薬

遠藤周作/角川文庫/Kindle

海と毒薬 (角川文庫)

 かつて読んだ『沈黙』がよかったので――とはいっても気がつけばもう十六年も昔のことだった――別の作品も読んでみようと思って、内容をまったく知らずに手にとった遠藤周作の作品なのだけれども。

 これはぜんぜん駄目だった。好きになれる要素がひとつもなかった。

 だって太平洋戦争中に、アメリカ人捕虜を生体解剖した人たちの話ですよ?

 そんな話だと知っていたら、絶対に読んでない。病院とか病気の話が嫌いな人間にとっては、完全に許容範囲外。三島由紀夫の『憂国』と同じくらい読むのがつらかった。

 まぁ、それほどグロテスクな描写があるわけではないのが救いだけれども、それでも命を救うことを生業としているはずの医者が、平気で人の命を奪うという事実がなんとも受け入れがたい。これが実話をもとにしたフィクションだと知ってなおさら驚いた。なんてことしてくれてんだ、戦前の日本人。

 まぁ、こういう醜い現実をフィクションとして白日のもとに晒すのも小説という芸術表現の役割のひとつだという考えもあるんだろう。主題は罪悪感ひとつ抱くことなく非道を働く権力者たちではなく、そんな悪党どもに流されるまま、事件に関与させられた弱き人たちの苦悩と煩悶なわけだし。

 ふつうの人がふつうではいられない。戦場で人を殺した人たちが帰国してあたりまえのように日常を送っている。そんな戦争のもたらす非人間性をあぶりだした作品としては、価値がある作品なのかもしれない。

 でも嫌なもんは嫌なんだ。あまっちょろい僕にはこの小説はまったく受け入れられない。紙で買わなかったのがせめてもの救いだった。

 あぁ、やりきれない……。

【追記】ゆうべテレビをつけたら、NHKでその「九大生体解剖事件」のドキュメンタリーをやっていた。そんな偶然ってある?

(Dec. 06, 2025)

薬屋のひとりごと16

日向夏/ヒーロー文庫/主婦の友社/Kindle

薬屋のひとりごと 16 (ヒーロー文庫)

 ついにたどり着いた『薬屋のひとりごと』の最新巻。

 医療ドラマみたいだった前作につづいて、今回もメインは病気の話。地方の村で疱瘡が流行って、医局の人たちがてんてこまいすることになる。

 ちょっと前に猫猫(マオマオ)の後輩となった妤(ヨ)と、猫猫が薬屋の仕事で知りあった克用(コクヨウ)が、ともにかつて疱瘡に感染したことがあり、免疫があるということで、今回はけっこう大事な役どころを演じている。

 疱瘡といわれてもいまいちぴんとこないけれど、それがかつて法定伝染病だった「天然痘の別称」だと言われると、あぁ、それは大変そうだって思う。新型コロナウィルスのパンデミックからまだ数年なので、またもやあんなめになったら本当にやだなぁって思うと他人事じゃない。

 そんな重大事への対応に並行して、今回も猫猫はいろんなところへひっぱりまわされている。雀(チュエ)につれられて馬閃と里樹(リーシュ)の様子をのぞきにいったり。壬氏に請われて皇太后の親戚の毒薬投与事件の謎を解いたり。羅半が商売相手に拉致された事件を解決したり。最後は、らしからぬ態度で壬氏に甘えてみたりしている。

 いちおう疱瘡絡みの話は切りよく終わった感じけれど、さて、このつづきが読めるのは来年か再来年か。この作品、まるで終わりが見えない。

(Dec. 3, 2025)

草の竪琴

トルーマン・カポーティ/村上春樹・訳/新潮社

草の竪琴

 トルーマン・カポーティの代表作のひとつであり、村上春樹氏が長年愛読しているという中編小説『草の竪琴』に、短編『最後のドアを閉めろ』『ミリアム』『夜の樹』の三篇を併載した作品集。

 春樹氏があとがきで「『遠い声、遠い部屋』と『草の竪琴』は、同じ物語のネガとポジのような位置関係にあると評することもできよう」と書いているように、なるほどこの小説は『遠い声、遠い部屋』を陽当たりのいい場所で天日干しにしたら、暗い部分が色あせてなくなってしまった、みたいな作品だった。

 主人公のコリンは親を失って、親戚のもとへ身を寄せた少年で、その家で暮らす年寄り姉妹の姉ドリーとなかよくなる。でもって彼女たちのお家騒動(みたいなもの)に巻き込まれて、ドリーと彼女の召使兼親友のキャサリンともに家出をして、近所のツリーハウスに立てこもることになる。

 身寄りのない多感でイノセントな少年の話という点では『遠い声、遠い部屋』と同じなのだけれど、この小説ではその「イノセンス」の持ち主が主人公のコリンだけではなく、ドリーという老女もだという点が重要。むしろ結婚もせず、一度も社会に出たことのないまま年を取ったドリーのほうが、思春期のコリンよりもなおさらイノセントかもしれない。

 さらにそこに黒人だかネイティブ・アメリカンだかよくわからない世間離れしたお手伝いさんのキャサリンが加わった三人組に、地域のはみだし者である男性ふたりが絡んでくる。同調圧力の強い南部の社会では浮きまくっている五人のいびつな共同体の寓話のような善良さがこの小説の魅力。少なくても僕にとってはそうだった。

 カポーティの小説――というかアメリカ南部作家の文学全般――って、この本に収録されている短編のように、曖昧な表現が多くて、居心地の悪さを感じさせる作品が多い印象で、いまいち苦手なんだけれど、この小説はそのおとぎ話のような空気感がよかった。まぁ、それも最後には失われてしまうわけだけれども。その喪失感もまたこの小説の魅力のひとつだと思った。

 でもだから。そこで終わってくれていればよかったのに……。

 そのあとの短編は僕にはいささか蛇足に思えた。いい気分で映画館から出てきたら、外は雨が降っていて、いきなり現実に引き戻された、みたいな気分になった。

 願わくば『草の竪琴』の余韻を残したまま終わりたかった。

(Nov. 29, 2025)