われらが歌う時
リチャード・パワーズ/高吉一郎・訳/新潮社(上・下巻)
僕がいま現在、もっとも翻訳が出るのを楽しみにしているアメリカ人作家、リチャード・パワーズの長編第8作。
翻訳としてはこれがまだ4作目だけれど、今回のもまたもや破格。すごい、すごすぎる。この人、人間じゃないんじゃないだろうか。書く本、書く本があまりに規格外だ。天才とはまさにこういう人のことを言うんだと、あらためて思う。
つねになにかしら新しいことにチャンレジしてみせる天才パワーズがこの作品で挑んでみせたのは黒人差別問題。リチャード・ライトやジェームズ・ボールドウィン、トニ・モリソンといった黒人作家の作品で僕には馴染みの深いテーマだけれど、白人でここまで真正面から黒人問題を描いてみせた作家はおそらく珍しいんじゃないかと思う。
この小説の主人公は、音楽が縁で出逢い、白人と黒人という人種の壁を越えて結ばれたカップルとその子供たちからなるシュトロム一家。父親のデイヴィッドはアメリカに亡命してきたユダヤ人物理学者。母親のディーリアは声楽家をめざす若き黒人女性。つまり彼らの子供たち――ジョナ、ジョゼフ、ルースの三兄妹――は、ユダヤ人と黒人という被差別人種どうしを両親とするハーフなのだった。
その点、この小説は、たんに黒人文学の系列に属するだけではなく、バーナード・マラマッドなどのユダヤ人文学も継承するよう意図されているのだと思われる――というか、人種差別という社会問題をより深く描き出す上で、あえてこういう設定を選んだのだろう。
冒頭、子供たちがまだ幼いころのシュトロム家は、音楽好きの両親のもと、一家そろってクラシック系の歌曲を合唱するのを楽しみとする、とても幸せそうな家族として描かれる。歌のあふれる家庭の風景は幸福感であふれている。僕もこんな風に歌える父親だったらよかったのにと思ってしまうくらいに。
しかしながら、話が進むにつれて、その一家がどれくらい深刻な問題を抱えているかが、次第にあきらかになってゆく。
なんたって、デイヴィッドとディーリアのふたりが出会うのは、いまだ公民権運動も始まらない第二次大戦中のことだ。いまでならば白人と黒人の夫婦も珍しくなさそうだけれど、そのころのアメリカでは、州によっては白人と黒人の結婚が重犯罪とされていたという。そんな時代に、世間の風潮に逆らって結婚したふたりの前途は、多難なんて言葉じゃ言い尽くせないくらいの苦悩に満ちている。とくに白人との結婚により、愛する家族との絆を失ってしまうディーリアの孤独はよりいっそう深刻で胸をうつ。
彼らとって音楽は、シビアな人生を生きてゆく上での唯一のよりどころだった。音楽に導かれて出会った彼らは、自分たちが音楽に向ける情熱のありったけを注いで、子供たちを育てる。結果、長男のジョナは声楽家としての天性の才能を開花させ、弟のジョゼフをしたがえてクラシックの世界で大成することになるのだけれど――R&Bやソウルが隆盛をきわめる60年代に、クラシック界で活躍する黒人兄弟を描くあたりが、白人作家ならではという気がしないでもない――、しかしながら、ジョナの音楽家としての成功は、皮肉にも彼ら一家の離散を招くことになってしまう。
この小説はシュトロム夫妻の受難の歴史をフラッシュバックで差し挟みつつ、その子供たちの波乱に満ちた音楽人生を、あふれんばかりのレトリックでもって描いてゆく。また、そこには20世紀のアメリカ社会で実際にあったさまざまな事件が効果的に織り込まれている。たとえば、デイヴィッドとディーリアのふたりが出会うのは、リンカーン記念館の前で開かれた、マリアン・アンダーソンという黒人女性ボーカリストのフリー・コンサートにおいてだ。僕は先日、そのときの記録映像を、同じ場所で開かれたオバマ大統領就任記念コンサートのテレビ中継で見たばかりだったので、ちょっとびっくりした。
なんにしろこれは、とある一家の家族史をベースにした音楽小説でありながら、なおかつアメリカの現代史をたっぷりと盛りこんで、人種差別問題を真正面からとりあげてみせた大河小説でもあるという、とんでもない力作なのだった。しかも最後には村上春樹ばりのファンタスティックな結末まで用意されている。こんなすごい小説、めったに読めない。
これまでに翻訳されたパワーズ作品のなかでは、もっともエンターテイメント性が高くて読みやすかったし――まあ、とはいってもパワーズはパワーズだから、骨が折れることには変わりがなく、このところ音楽中心の生活を送っていて、ずいぶん読書量が減ってしまっているせいで、不覚にも読み終わるまでに2ヶ月ちかくかかってしまったけれど――、時間が許すのならば、いまからもう一度、読み返したいくらいってくらいに、おもしろかった。
(Jul 03, 2009)