幻影の書
ポール・オースター/柴田元幸・訳/新潮社
ここ何作か、ポール・オースターを読んできて思ったこと。この人の作品の特徴は、芯がどこにあるかわからないことではないかと。この小説にしても、構造が多重すぎて、どこに焦点をあわせていいのか、よくわからない。
この小説の語り手は飛行機事故で妻とふたりの息子を失い、悲しみにおぼれて世捨て人同然となっていた大学教授。彼はたまたま観た一本の無声映画に惹きつけられ、その映画の作り手であるヘクター・マンなる映画監督(兼、喜劇役者)が残した十二本の短篇映画に関する詳細な評論書を書きあげる。ヘクター・マンという人は無声映画の末期にほんの短期間だけ活躍して、忽然と姿を消した謎の人物なのだけれど、その本がきっかけとなって、その人の妻だと名乗る女性から、彼のもとへと招待状が届くことになる。ヘクター・マンはまだ生きていて、彼に会いたがっているという。
ところがこの主人公のデイヴィッドという人が素直じゃなくて、そんな怪しい招待が受けられるかいとばかりに、そっぽを向いてしまう。そのうちに相手側からひとりの女性が使者としてやってきて、彼と彼女とのあいだでひと悶着あったすえに、物語はようやく本題に入り、ヘクター・マンが映画界から姿を消すことになったいきやつや、彼がその後にたどった数奇な人生がひもとかれてゆくことになる。
いや、「物語はようやく本題に入り」とか書いたけれど、本当にそこからが本題なのかは、いまひとつ心もとない。その部分がいちばん生き生きとしていておもしろいのは確かなんだけれど、それでも作中劇として語られるヘクター・マン作の映画のディテールなども、スティーヴン・ミルハウザーばりで、本編に負けず劣らず読みごたえがあるし、そもそもデイヴィッドとアルマ(彼を迎えにやってきた女性)との関係も、物語の上ではとても重要な意味を持つようになる。さらにヘクター・マンの奥さんという人も──出番は少ないながらも──、終盤の思いがけない展開においては、かなり強烈な存在感を放っている。
要するに、内容があまりに盛りだくさんで、強力なエピソードがこれでもかと詰め込まれているために、かえって全体像がはっきりしなくなってしまっている──そんな感じ。小説としてのレベルはそうとう高いと思うし、おもしろかったのは確かなところなんだけれど、そういう微妙なバランスの悪さのせいで、頭からどっぷりとその世界に浸りきれない。僕にとってのオースターは、いつもこんな感じのような気がする。
(Nov 11, 2009)