2011年4月の本

Index

  1. 『マーシイ』 トニ・モリスン
  2. 『燃える天使』 柴田元幸・編訳
  3. 『文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし』 京極夏彦

マーシイ

トニ・モリスン/大社淑子・訳/早川書房

マーシイ―トニ・モリスンコレクション (トニ・モリスン・コレクション)

 黒人女性作家トニ・モリスンの最新作。
 十七世紀末の植民地時代のアメリカを舞台に、とある農場に寄りあつまった人々──豪邸建築にのりだす成り上がりの農場主、見ず知らずの彼のもとへ海を渡って嫁いできたその妻、幼いころ実の母親に売られてその農場に引き取られた黒人奴隷娘、そんな彼女をわが子のように溺愛するネイティヴ・アメリカンの家政婦、数奇な運命の果てにその農場で子供を産み落とすことになる混血女性など──の思いを重ねて描き、生きることの喜びと悲しみをあぶりだす長編小説。
 黒人文学というと、被差別人種としての黒人の悲しみや怒りを描くものというイメージを抱いてしまいがちだけれど、トニ・モリスンのこの小説はそんな風に単純にカテゴライズできるほど、簡単じゃない。
 この小説の中では、登場する白人たちもまた、イギリスの植民地への移民として、階層社会のなかで抑圧されている。黒人にしても、抑圧された可哀想な存在としてステレオタイプに描かれていたりはしない。主人公格のフロレンスは、幼くして実の母親に売られてしまうという、たしかに可哀想な身の上ではあるけれど──そしてそんな彼女が本当に哀れなのかが主題につながってゆくわけだけれど──、それでも農場での彼女は決して不幸な生活を送っていたりはしない。逆に愛されながらもその愛にこたえない、エゴイスティックな自我の持ち主として描かれている(ように僕には思えた)。少なくても彼女は悲劇のヒロインなんかではない。
 それぞれに悲しみを抱いて生きる人々が、さまざまな事情のもとで寄り集まってできた疑似家族的な共同体が、ひとりの死をきっかけに、それまで保っていた{いびつ}ながらも良好な関係性を失い、崩壊してゆく様を描いた群像劇。報われない愛と喪失の物語。
(Apr 09, 2011)

燃える天使

柴田元幸・編訳/角川文庫

燃える天使 (角川文庫)

 柴田元幸先生の翻訳・編集による現代英米文学の短編集のうちのひとつ。
 もともとは 『僕の傘、僕の恋』 というタイトルだった単行本に大幅に作品を追加して、文庫化にあわせて改題したものとのこと。どちらかというと前のタイトルのほうが興味をそそる気がする。
 でも冒頭を飾るその作品、『僕の傘、僕の恋』 は、そのタイトルほどには魅力的でない。これは雨の降るなか、野外で傘をさしながらセックスするカップル(器用だ)の破局の話。男性の語り手がなんとなく身勝手でうじうじしていて、いまいち好きになれなかった。
 この一本目でつまずいた上に、このところ読書への集中力を欠いているせいもあって、その後の作品もいまいち楽しみきれず。レズビアンと孤児が空き家で友情を温める話とか、刑務所長の息子の回想録とか(『スパイダー』 のパトリック・マグラアの作品)、悪くはないとは思うんだけれど、いまいち現時点での僕の趣味にあわない感じ。
 ようやくこれはいいと思えたのが、真ん中あたりに入っているマーク・ヘルプリンという人の 『太平洋の岸辺で』 という作品。太平洋戦争のために結婚したばかりの夫を戦場に送り出し、みずからは軍事工場で働く若い女性の心情を描いたもので、とてもすっきりとした端正な文体が好印象だった。
 そのほかだと、ピーター・ケアリー──前から一度読んでみたいと思いつつ読めずにいるうちに、気がつけば何冊かあった翻訳がすべて絶版になってしまっているオーストラリア人作家──の 『影製造産業に関する報告』 という作品が、スティーヴン・ミルハウザーっぽくてよかった。後半それらの作品で持ち直したので、読後感はなかなか。
 スチュアート・ダイベックの作品(『猫女』)も収録されているけれど、これはなんだかよくわからない。この本に収録されている作家のうち、僕が知っているのはこのダイベックだけ。先に名前をあげたマグラアなんて、読んだことがあるのに名前さえ忘れていた。あれ、字面に見覚えが……とか思ったやつ。情けねぇ。
(Apr 10, 2011)

文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし

京極夏彦/角川文庫

文庫版  豆腐小僧双六道中ふりだし (角川文庫)

 京極夏彦という人は、デビュー作からずっと妖怪をモチーフにした小説を書いてきたけれど、それでいてその作品中に妖怪が登場することはまったくなかった。殺人事件を妖怪に例えてみせたり、妖怪を見たと思った人や、見たと思わせた人がいたりはすれども、妖怪が登場したことは一度もなかった。少なくてもこの小説の前までは。
 でもこの作品は違う。文字どおり、主人公は妖怪。それも江戸時代の黄表紙から飛び出してきた、豆腐を持ってたたずむだけの妖怪、豆腐小僧。ひょいとしたことから廃屋となった豆腐屋に湧いて出たこのおバカな小僧が、自分はいったい何者なのかと、ない頭を悩ませつつ、さまざまな妖怪との出逢いを重ねながら、旅をつづけてゆくという話。つまり妖怪研究家を自称する作者が満を持して持ってきた、画期的な妖怪小説なんだった。京極ファンとしてはこれを読まずしてどうすると思う。
 ただし、妖怪小説とはいっても、いわゆる怪談のようなものとはまるきり違う。まったく怖くはないし、それどころか笑いがたっぷり。語りはご隠居風の落語調だし、妖怪どもは「しょせん俺たちゃ実在しないから」と言ってのける、メタフィクショナルな存在だし。自らのなんたるかをわきまえた妖怪たち自身による妖怪論は、ある意味じゃ百鬼夜行シリーズの京極堂の語りよりも、さらにわかりやすく妖怪とはなにかを説明してくれている。
 しかもこれ、エンターテイメントとして、すこぶるおもしろい。最後はちょっとほろりとさえくる(少なくても僕はきた)。いわば、笑えて泣けてためになる、三拍子そろった滑稽小説の傑作。一度でも京極夏彦の作品がおもしろいと思ったことがある方には、ぜひとも読んでいただきたい逸品です。
 なお、この小説、舞台は江戸時代末期で、最近さかんにCMが流れている 『豆富小僧』 なるCGアニメとはおそらくまったく別物です。絶対こっちのほうがおもしろいと思うんで、あれを見て食わず嫌いになられないよう、どうぞよろしく。
(Apr 30, 2011)