僕は当初、この本の感想を書くのをやめようと思っていた。
わけあってグイン・サーガについては、これまでに感想を書いてこなかったし(正確にいうと、ある時期から書くのをやめた)、この最後の外伝に対しても、あまりいいことは書けそうになかったので。いまさら死者に鞭打つようなことはするべきじゃなかろう──そう思って、書かずに済ますつもりだった。
とはいえ、なんだかんだいいつつ、僕は三十年近くの長きにわたって、このグイン・サーガという小説を読んできたわけで。その間には、少なからずこの大河小説に感動を覚えたこともあった。いや、それも一度や二度の話じゃない。十代でイシュトとリンダの恋に胸を熱くし、二十代で豹頭将軍の誕生に興奮し、三十代でナリスの死に愕然とした。
四十代になった近頃は、脱線につぐ脱線で、予告した百巻を超えてなお、終わる気配さえない、とりとめなく続くその自堕落さにすっかりうんざりしていたけれど──だからインターネットで感想文(書評というほどのものは書いていない)を公開するようになったのを機に、この小説だけは感想を書くのをやめてしまった。そのころにはすっかりネガティブなことしか書けなくなっていたし、年に何度も愚痴のような文章を人前にさらすのはいやだったので──、それでも過去において、僕はこの長大なヒロイック・ファンタジーを、僕なりに愛していたんだった。
そう、それなのに、その時々で感じた熱い思いに対して、最終的にひとこともなしで済ますのはどうなのさと。
いまさらながらそう思ったので、最後にグイン・サーガに対する僕なりの思いをつづって、この未完の大河小説を、それを書いた栗本薫という天才を偲びたいと思う。
とはいえ、僕のグイン・サーガに対する思いは、「無念」、このひとことに尽きる。
作者に終わらせる覚悟さえあれば、きちんと終わらせられたはずのものを、その筆のおもむくがままに任せ、野放図に書きつづけたがゆえに、みすみす未完のままに──それもクライマックスへの方向性さえも見えない中途半端な状態のままに──終わらせてしまったという。そのことに対する激しい不満がある。完結さえしていれば、史上最大最長の傑作エンターテイメント小説たり得たものを……。そういう苦い思いが否めない。
そもそも、これだけ尋常ならざるボリュームがあってなお、クライマックスが欠けた小説を、この先いったい誰が読み始めようと思うだろう?
少なくても僕だったら、絶対そんな小説には手を出さない。
「グイン・サーガ? あれって終わってないんでしょう? そんなもの読まないよ。クライマックスを待たずに途中で終わってしまう小説に、それも娯楽小説に、いったいどんな価値があるっていうんだい?」
きっとそう言うだろう。
僕は、栗本さんはグイン・サーガを愛しすぎたゆえに、自らその価値を貶めてしまったのだと思う。
そう、グイン・サーガは甘やかされた子供のようだ。放任主義の親から、好きなように自由奔放に生きなさいと育てられ、人並みはずれて大きくなってみたものの、おかげで二十歳をすぎても大人になりきれず、そうこうするうちに親に死なれて、未熟なまま世間に放り出されて、途方に暮れているという。
きちんとしつけを受けて、二十歳で普通に成人を迎えていれば(つまり予定どおり百巻でちゃんと完結していれば)、その存在自体が飛びぬけた、立派な大人になれていたはずなのに。それがスポイルされすぎた挙句に、場所ばかり取って(外伝を含めれば、文庫で百五十冊を超えるのだから、かなりの場所取りだ)、それで読書好きにとってはなにより大事な、「読了」という満足感を与えてくれない、中途半端な存在に成り果ててしまうなんて……。悲しいというよりも、むしろ腹立たしい。
僕は栗本薫という人は、稀有な才能を持った小説家だと思っていた。湯水のように言葉をつむぎだす圧倒的な文章力と、適度な文学性を含んだストーリー・テリングの妙は、日本が世界に誇れるものではないかと思っていた。
ただ、そんな僕の思い込みも、グイン・サーガが百巻で終わらないのが明らかになったくらいから、ぶれてくる。物語は終わりが見えないまま、外伝で書いた方がふさわしいような内容へと脱線してゆき、やがて卑俗なセリフに伏字を使いはじめるに到っては、この人はもう終わっているんじゃないかと思わされた。なにゆえ作者が自ら作品の品格を貶めるようなことをする? そして、そんな疑問が解消されることがないまま、栗本さんは逝ってしまう……。
グイン・サーガの悲劇は、栗本さんのまわりに彼女の暴走をくい止め、軌道修正できるスタッフがいなかったことではないかと思う。
これがそのほかのメディアだったら、全百巻と銘打って始めたシリーズが、その倍に膨らむのをそのまま放置するなんてことは起こり得なかったはずだ。2時間のはずの映画が5時間になったら、プロデューサーが放っておかない。全百巻の全集が、刊行終盤になって「やはりあと百冊増やします」なんて話になったら、そりゃ詐欺まがいで、クレームの嵐だろう。
一エンターテイメントとして商業的にみた場合、グイン・サーガのあり方は間違っていると僕は思う。でも栗本さんがやったような、一個人が全百巻を超える大河小説を書くという行為は、それ自体が空前絶後だったために、誰ひとり彼女の暴走をくい止めることができなかった。
出版社もグイン・サーガを正真正銘のネバー・エンディング・ストーリーだと勘違いしていたんではないだろうか。長年連れ添った読書家の忠誠心は強い。終わらないでいてくれるならば、こんなおいしいシリーズはない。けれど悲しいことに、彼らにとっての金の卵を産むガチョウは永遠に生きつづけなかった。結果、あとには長大で尻切れトンボな大長編が残されることになった。
僕自身がはっきりとグイン・サーガの方向性に疑問をおぼえたのは、大怪我を負ったイシュトが悪夢にうなされるエピソードのとき――いつ頃の話かも忘れた(グインに斬られたんでしたっけ?)――だった。グイン・サーガは一巻あたり四話からなる。そのうちの一話をまるまる悪夢の話に費やしているようでは、とうてい百巻で物語が終わるわけがないと思った。
べつにそのエピソードが悪かったとは言わない。いや、逆にメイン・キャラの苦悩が色濃く表れた、出色のエピソードだったとさえ思う。ただ、グイン・サーガを本当に三国志のような大河小説として考えるならば、それはあきらかに余計なエピソードだった(三国志では曹操の内面の苦悩を描くのに一話を裂いたりしない)。外伝として描かれるのがふさわしいエピソードだった。
そしてある時期以降のグイン・サーガは──栗本さんが百巻で終わらないことに対して開き直ったせいもあって──そういう外伝的なエピソードであふれかえってしまった。ヤンダル=ゾックとの戦いにしろ、そのあとのタイス編にしろ、僕は本来は外伝として書かれるべきエピソードだったと思う。タイス編における、フロリーがタリクに見初められるエピソードなんて、その際たるものだ。脇役どうしの恋物語(しかも片想いの)が、なにゆえ正伝の一話に組み込まれなきゃなんないのか?
何度も書くけれど、そういうエピソードがつまらなかったとは言わない。いや、むしろ楽しく読ませてもらいさえした。
でもそれらが正伝に組み込まれるべきエピソードではなかったという思いは変わらない。正伝をきちんと完結まで持っていった上で、改めて外伝として書かれるべきエピソードだったと思う。そう、かつて 『三人の放浪者』 の前のエピソードをごそっと端折ってみせたときのように。
物語を構成する上で、書きたいことをあえて書かないというのも、作者の腕の見せ所のひとつだろう。いかにその枝振りが美しかろうと、全体像を見据えた上で、不必要な枝葉はばっさりと切り落としてみせる。──本当にいい作品を生み出すためには、そういう作業が不可欠だと思う。
そういう意味では、正伝と外伝の境がきわめて曖昧になってしまった後期のグイン・サーガにおいては、栗本薫の小説家としての腕前は、明らかに落ちていたといわざるを得ない。かつてはできていたことが、できなくなっていたのだから。そして栗本さん自身がそういうことができなくなっていたということ以前に、そんな栗本さんを諭して、正しい方向へと軌道修正させてあげる関係者がいなかったという事実に、僕はなんともいえない悲しみをおぼえてしまう。
これから先、栗本さん以外の作家があとを継いで物語を書き進め、グイン・サーガが完結する日がくるのかもしれない。でもそれはおそらく、僕がかつて愛した栗本薫のグイン・サーガとは別のものだろう。僕は栗本さん以外の作家が書くグイン・サーガにはまったく興味が持てないでいる。
だから僕がグイン・サーガを読むのはこれが最後になると思う。いずれ再読することはあるかもしれないけれど、少なくても新しいエピソードを読むのは、おそらくこれが最後だ。その最後の一冊がこういう落穂拾い的な外伝だというのにも、なんとも言えないものがあるなぁ……と思うのだった。
以上、書かないつもりでいたわりには、思いのほか長くなってしまった。まあ、なんだかんだいって、少なくても十代のころの僕にとって、栗本薫はもっとも重要な作家のひとりだったのを思えば、それも当然のこと。ということで、最後にひとこと。
さようなら、栗本さん。僕はあなたの作品が大好きでした。ご冥福をお祈りします。
(Jun 16, 2011)