フラニーとズーイ
J・D・サリンジャー/村上春樹・訳/新潮文庫
村上春樹によるサリンジャー作品の新訳版・第二弾。
この本、大学生のころに読んだときには、自らのイノセンスに押しつぶされそうになっているフラニーの苦悩に大いに共感していたような気がするのだけれど、かれこれ四半世紀ぶりに再読してみて感銘を受けたのは、それより挟み込みの小冊子のなかで春樹氏も指摘しているところの、『ズーイ』における語り(文体)のみごとさ。
『ライ麦畑』の饒舌さに近いものの、あきらかにそれとは違う。より成熟した視点より発せられているその言葉の濃度の濃さにひたすら感心してしまった。あらためてサリンジャーってすごい小説家だったんだなって思った。
そんな風に感心するのも、この本で描かれている風景が、いたってありきたりだから。
短編『フラニー』は大学生のカップルの二時間足らずのデートの話だし、それを受けての中編『ズーイ』の登場人物はグラス家の家族三人だけで、舞台はずっと彼らの家のなか。それもバスルームと居間とフラニーの部屋くらい。
物語はといえば、言葉でうまく説明できない悩みを抱えて引きこもってしまった多感な大学生の女の子が、その兄に慰められる話。ただそれだけなわけです。しかもその兄妹がともに天才で美男美女だという設定なのだから──おまけにかなり宗教がかってもいる──、いまの世相からすれば、なにいってやんでぇって作品にも思える。
それでも、思春期に多かれ少なかれフラニーのように落ち込んだ経験があるものとしては──ない人もいるんでしょうか?──、そんなふうに言葉を失ってどん底まで落ち込んだ妹を、風変わりなルートをたどってぎこちなくなぐさめてみせる兄の姿に、心温まるものを感じずにはいられない。そしてその感動がありきたりなものにならないのは、やはりサリンジャーのみごとな文体に負うところが大きいなと。今回再読してそう思った。
いい作品だけに、できればこれは単行本で出して欲しかった。新潮社さん、なぜにいきなり文庫オリジナル?
(Oct 13, 2014)