春にして君を離れ
アガサ・クリスティー/中村妙子・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle
クリスティーがメアリー・ウェストマコット名義で発表したノン・ミステリ小説の第三弾。
この作品、ミステリではないのでどれくらい知名度があるのかわからないけれど、一度でも読んだことのある人ならば、ほぼ全員がクリスティーの最高傑作のひとつだという意見にうなずいてくれると思う。
この作品のなにがすごいかって、まずはその地味な設定。バグダッドに住まう娘夫婦のもとを訪れたイギリス人の中年女性が、帰国途中に砂漠の僻地で足止めをくって、数日間をひとりで無為に過ごすことになるという。ストーリーだけ取れば、ただそれだけの話なわけです。表面的にはなにひとつ事件は起こらない。
ところが退屈をかこった主人公がひとりぼっちで内省をしいられるうちに、しだいに彼女の心のなかに潜んでいた見たくないもの、見てはいけないものが、砂漠の陽射しに焼かれて白日のもとにさらけだされてゆく。その過程のなんとスリリングなこと!
この小説の主人公はこれといった取り柄のない平凡な中年女性だ(本人はそうは思っていないけど)。そんなキャラクターを主役に仕立てて、なおかつなにもない砂漠に置き去りにしただけで、これほどまでにおもしろい小説が書けるってのが驚き。
シニカルな結末も文句なしに素晴らしいし、殺人こそ起こらないけれど、この小説にはクリスティーの最上のミステリと同等の感動がある。クリスティーを読むならば、絶対にはずしてはいけない一冊だと思われます。なにげに邦題も切なくて素敵です。
ちなみにこの本を読むと、僕はいつも佐野元春の『ガラスのジェネレーション』を思い出します。なぜって? それは読んでのお楽しみ。わかる人にはわかるはず。
(Apr 11, 2017)