2021年5月の本

Index

  1. 『スタン・ゲッツ:音楽を生きる』 ドナルド・L・マギン

スタン・ゲッツ:音楽を生きる

ドナルド・L・マギン/村上春樹・訳/新潮社

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 村上春樹氏の翻訳によるジャズ界のレジェンド、スタン・ゲッツの伝記本。
 ジャズというと黒人音楽という先入観があるせいか、僕はこれまでスタン・ゲッツという人のことを名前しか知らなかったので、この本を読んで、ジョアン・ジルベルトの『イパネマの娘』を世界じゅうに知らしめたのがそのゲッツさんだと知って、少なからず驚いた。
 だってあれってジャズ・ナンバーなの? その曲が収録された大ヒット・アルバム『Getz/Gilberto』を聴いてみたけれど、やはりそれがジャズといわれても、いまいちぴんとはこない。基本的に半分は歌ものだし。ボサノバってジャズというよりもポップスよりではないでしょうか?
 少なくても僕には『イパネマの娘』の耳ざわりのよさは、フリージャズといわれるジャンルの難解さの対極にあるように思える。春樹氏があとがきで「スタン・ゲッツがいちばん好きだ」とは公言しにくいものがあったと書いているけれど、このアルバムを聴くとさもありなんと納得してしまう。
 とはいえ、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンらのジャズ界の巨人と肩を並べる名声を手にしていたスタン・ゲッツという人が、こういう新しくて親しみやすい音楽を率先して取り入れたのは素直にすごいなと思う。先入観にとらわれず、いいものはいいと受け入れて、世に問うてゆく姿勢は大事だろう。まぁ、その結果として硬派なジャズ・ファンにはそっぽを向かれたのならば気の毒だけれど……。
 僕もこの本を読みながらスタン・ゲッツの代表作といわれるアルバムをいくつか聴いてみたけれど、正直なところ、あまり盛り上がれなかった。基本的に僕はパーカッシヴな音が好きなので、サキソフォンという楽器のなめらかな音にはもともと感じるところが少ないような気がする。でもゲッツ氏のサキソフォンの音色に独特の色気があるのは、なんとなくわかるような気がしなくもなかったです、はい。
 ということで、とくにファンでもないミュージシャンについての伝記だし、でも春樹氏の翻訳だからなぁ……とあまり気乗りしないまま渋々読み始めたのだけれど、いやいやどうして、これが予想外におもしろかった。
 この本のおもしろさのいちばんの要因はその枝葉の広がりにある。
 作者のドナルド・L・マギンという人は、スタン・ゲッツというミュージシャンの生涯を語るにあたって、本人のみならず、その周辺にいる人々や時代の風景を丹念に掘り下げてゆく。例えば若き日のゲッツ氏が所属したジャック・ティーガーデンやウディー・ハーマンのバンドにまつわる話が、ゲッツ氏本人の加入前までさかのぼって丁寧に紹介されたり、ゲッツ氏の二度目の結婚相手となるモニカの叔父がスウェーデンの貴族であり、ナチスの国家元帥ゲーリングと懇意だったというエピソードが延々と語られたりする。もしかしたらこの本の四分の一はスタン・ゲッツ本人には関係のない話なんじゃなかろうかってくらい。
 そんな風に視野を広げることによって、この本はスタン・ゲッツという一人のミュージシャンを定点にしながら、二十世紀の欧米の社会とジャズの歴史を俯瞰させるような内容になっている。そこがすごくよかった。
 スタン・ゲッツに興味のない人にもお薦めできる、非常に読みごたえのある――いや、いささか読みごたえがありすぎるくらいの一冊。
(May. 09, 2021)