2021年7月の本

Index

  1. 『アーサーとジョージ』 ジュリアン・バーンズ
  2. 『鏡は横にひび割れて』 アガサ・クリスティー
  3. 『古くて素敵なクラシック・レコードたち』 村上春樹

アーサーとジョージ

ジュリアン・バーンズ/真野泰・山崎暁子・訳/中央公論新社

アーサーとジョージ

 帯のあおり文句に「コナン・ドイル自らが操作に乗り出した冤罪事件があった」とあるように、この作品はアーサー・コナン・ドイルを主人公にしている。
 ただ、構成が凝っていて、そうと知らないで読み始めると、序盤はそのことがまったくわからない仕組みにもなっている。
 タイトルの通り、第一部ではアーサーとジョージというふたりの男性の半生を、その生い立ちまでさかのぼって語ってゆく。それぞれの名前をつけた短いチャプターが二、三ページごとに交互に繰り返されて、二人のひととなりが徐々に明らかになってゆく。
 アーサーは良家の子息として生まれ、母親を溺愛する文武両道のエリート。クリケット代表チームの主将になることを嘱望されたりしながら医学の道へと進む。かたやジョージは司祭の息子に生まれた、真面目さが取り柄の孤独な男性。変わったところがあるらしく、周囲からはなぜかいじめられていたりするのだけれど、そのことに特にめげもせず、地道な努力のすえに事務弁護士となる。
 さて、このまったく接点のないふたりにコナン・ドイルとどんな関係が……とか思いながら読んでいた僕は、第一部の途中でようやく自分の馬鹿さ加減に気づいた。そうだった、コナン・ドイルのファースト・ネームはアーサーじゃん!
 果たして第一部の終わりにアーサーが探偵小説を書き上げ、その主人公をシャーロック・ホームズと命名したことが明かされる。
 一方のジョージにも、序盤はわざとぼやかしてあった事実があったことが第一章の終わりごろに明らかになる(え、気づくのが遅い?)。彼の父親はジャブルジという名前のパールシー(ゾロアスター教信者)で、つまり彼はインド系イギリス人なのだった。そこでようやく彼がその出自のせいでまわりの友人から差別を受けて孤立していたことがわかる。
 第二部に入るとそれまで細切れで交互に語られていたジョージとアーサーが物語が、それぞれの話に枝分かれする。前半は連続家畜殺害事件の犯人として冤罪の判決を受けて投獄されてしまうジョージの話。後半は人気作家となったのちに妻とは別の女性と恋に落ちて苦しむコナン・ドイルの話。
 それぞれの苦悩をたっぷりとボリュームを割いて描いたのち――全ページ数の半分以上を優に超えたあとで――この小説は第三部に入ってようやく帯の文句にあるコナン・ドイルによるジョージの冤罪事件の捜査へとたどり着くのだった。
 そう書くとそこからがこの小説の本編のようだけれど、決してそんなことはなくて、短いエピソードを積み重ねて主人公ふたりのキャラクターを浮かび上がらせてゆく第一部も、冤罪と恋愛というまったく違う苦悩をそれぞれに描いた第二部もとても読みごたえがある(個人的には第二部こそがこの作品の文学的な頂点だと思う)。で、それらを受けて始まる第三部で事件の全貌が描かれ――ただし史実にのっとっているためにあまりすっきりとした結末には至らない――そしてエピローグとしての第四部ではやや明後日の方向から後日談を描いて終わるという構成になっている。
 英ミステリ界の偉人を主人公に据えながら、凝った構成で読者を煙に巻きつつ、苦みたっぷりのふたつの人生の交錯を描き切ってみせた見事な小説。さすがジュリアン・バーンズという出来映えの逸品だと思う。
(Jul. 10, 2021)

鏡は横にひび割れて

アガサ・クリスティー/橋本福夫・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle

鏡は横にひび割れて (クリスティー文庫)

 アガサ・クリスティーの作品のうちでも五本の指に入る傑作のうちのひとつ。
 すっかり年を取ってしまって、住み込みの付添人からおばあちゃん扱いされることにうんざりしているミス・マープルが、セント・メアリ・ミード村に越してきた有名女優の屋敷で起こった悲劇の謎を解きあかす話。
 初めてこの小説を読んだときの衝撃はものすごかった。そのインパクトにおいては『ナイルに死す』『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』を超えて歴代第一位といっていい。それくらいにすごいと思った。
 ただ、今回再読してみたところが、残念ながらそれほどでもなかったというか……。『アクロイド殺し』などは再読してみて、おー、これはすごいと思ったりしたけれど、この作品ではそういう「犯人が分かっているがゆえ」の読みどころというものがほとんど見い出せなかった。
 とくに終盤、あらたな被害者が出るあたりの展開(その辺はすっかり忘れていた)にはいささか強引さを感じてしまった。個人的にはあのまま最初の殺人だけで最後まで引っぱっていれば、もっと抑えの効いた結末になって、さらに名作度が上がっていたのではと思う。最初の殺人の動機だけでもう類を見ないほどのインパクトがあるのだから、その後の展開はいささか蛇足ではないでしょうか。そういう意味では、画竜点睛を欠くというか、弘法にも筆の誤りっていいたくなるところのある作品。
 でもそんなことを思うのも、再読だからであって、その着想の素晴らしさには疑問の余地がない。初めてこのミステリを読む人は確実にショックを受けて、その犯罪の動機の悲しさに胸を打たれることと思う。
 クリスティーを読むのならば、絶対に欠かすことのできない一冊。
(Jul. 12, 2021)

古くて素敵なクラシック・レコードたち

村上春樹/文藝春秋

古くて素敵なクラシック・レコードたち

 村上春樹が自宅のレコード棚にある膨大なコレクションの中から、お気に入りの作品をピックアップして紹介するクラシック音楽のエッセイ集。レコード・ジャケットを意識したんだろう真四角な装丁で、透明ケースに入ったソフトカバーの単行本。
 一章ごとにクラシックの楽曲を一曲ずつ選んで、その曲を演奏しているレコードを二~六枚、ジャケット写真とともに紹介するという趣向で、曲ごとにジャケ写に一ページ、本文が二ページの、計三ページという固定フォーマットになっている。
 各章には1~100の通し番号がついているから、つまり全百曲で三百ページ強――と思わせておいて、じつはそうではない。三ページでは紹介しきれないからと、項番は据え置きで《上・下》二本分のページを割いているものが十曲以上ある。あと、最後の四本は楽曲ではなく、小澤征爾さんほかの指揮者や奏者個人にスポットした内容になっている。
 ということで紹介されているレコードは合計486枚とのこと。クラシック門外漢にとっては、これだけの量のレコード評を一気に読むのはなかなか骨が折れる行為だった。まぁ、おかげでちょっとだけクラシックについての造詣が深まった。あくまでほんのちょっとだけだけど。とりあえず交響曲と協奏曲の区別はつくようになったし、モーツァルトの曲名についている「K」の意味はわかるようになった(とはいっても、そんな初歩的な説明はこの本には書いてないので、ググって調べた)。
 ストリーミングで多くの音楽が自由に聴ける昨今だから、時間があれば、この本で紹介されている曲をひとつずつ聴きながら読めたら、それはそれで楽しそうな気はするんだけれど、でもそんなことをしていたら、これ一冊読み終えるのに何百時間もかかってしまう。さすがにそんな時間は作れないので、とにかくわからないまま最後まで読み飛ばしました。
 老後に時間があったら、いずれ紹介されている音楽を聴きながら読み返すとしようかな――とか思ったけど、でもやっぱ僕はクラシック聴いている時間があるならば、そのぶん大好きなロックやジャズが聴きたいかな。
(Jul. 24, 2021)