2023年3月の本

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  1. 『ホーム・ラン』 スティーヴン・ミルハウザー

ホーム・ラン

スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸・訳/白水社

ホーム・ラン

 スティーヴン・ミルハウザーの最新短編集・其の一。
 原書はこれと次の『夜の声』あわせて一冊なのだそうだけれど、日本の出版事情ではそれはいささか厚すぎるということで、柴田さんと編集者が相談した結果、二分冊になったのだそうだ。
 僕個人はあまり分冊が好きではないので、できれば一冊で出して欲しかったところだけれど、まぁ、ミルハウザーの作風でこの倍のボリュームがあると、それはそれで相当歯ごたえがありそうだから、半分ずつにしてもらって正解かもしれない。とりあえず、僕は二冊つづけて読むことにして、『夜の声』も現在読書中(なかなか終わらない)。
 収録作でもっとも印象的だったのは、冒頭の『ミラクル・ポリッシュ』。訪問販売員から鏡磨きを買った男が、それで磨いた鏡に映る自分や恋人の姿に魅了され、うちじゅうを鏡だらけにしてしまうという偏執狂的な話。
 なぜかとか説明もなく地味なミラクルが起こって、ひとりの男の人生を破綻させてしまう。訪問販売の鏡磨きクリームなんて平凡な道具仕立てから、こんなに不穏でスリリングな話が生まれてしまう。その着想と表現力がすごい。
 その作品に限らず、ミルハウザーの短編はありふれた事象の位相をずらすことで、僕らの暮らすこの世界と地続きの異世界を垣間見させてくれる。
 今回は自殺者の多発する街の報告やら、なにやら不穏な入居施設の話など、死にまつわる陰鬱な空気感をまとった作品が多めな気がした。ブッダを主人公にした――ということを僕は柴田さんの解説を読むまで知らなかった――『若きガウタマの快楽と苦悩』にしても、ファンタジー色強めなのに世界観は暗い。
 唯一明るめなのは最後に収録された表題作の『ホーム・ラン』だけで、これは超特大ホームランボールが宇宙まで飛んでいってしまいましたというホラ話。要するに松本大洋が『花男』の最後で描いたホームランが地球を一周しちゃうやつ、あれと同じことをミルハウザーならではの言葉の技巧を凝らして、より大きなスケールでやってみせた短篇(内容が内容だけにわずか五ページ)。
 おそらくお互いのことを知らないであろう日米の奇才が似たような着想で世界の果てまで飛んでゆくホームランを描いているというのがおもしろいなと思った。
(Mar. 25, 2023)