Coishikawa Scraps / Books

2025年5月の本

Index

  1. 『海鳴り忍法帖』 山田風太郎
  2. 『4 3 2 1』 ポール・オースター
  3. 『村上ラヂオ』 村上春樹
  4. 『ファイト・クラブ』 チャック・パラニューク
  5. 『村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボカド』 村上春樹
  6. 『スローなブギにしてくれ』 片岡義男
  7. 『パット・ホビー物語』 F・スコット・フィッツジェラルド
  8. 『村上ラヂオ3 サラダ好きなライオン』 村上春樹

海鳴り忍法帖

山田風太郎/角川文庫/Kindle

海鳴り忍法帖 (角川文庫)

 忍法帖シリーズの実質的な最後の一冊。

 このあとに発表された『忍法創世記』は風太郎先生の生前には単行本化されていない訳ありの作品だし、『武蔵野水滸伝』と『柳生十兵衛死す』は忍法帖シリーズに入れるべきか意見のわかれる作品だと思うので、少なくても明確に「忍法帖」と題した作品としてはこれが最後の一遍となる。

 物語の舞台は室町時代末期。ぱあでれ(いわゆる「伴天連」のことをこの本ではこう表記している)フロイス神父が見守る中で根来寺ねごろじの忍法僧と剣聖・上泉伊勢守の一門との御前試合があり、松永弾正の手のものである根来僧が圧勝する。

 松永弾正は勝利の褒美として、将軍・足利義輝の妻か愛妾、どちらかをよこせと失礼千万な無理難題を押しつけ、義輝は返答に困って日々をやり過ごす。かくしてこれが引き金になって、弾正による謀反(永禄の変)が巻き起こる。

 主人公の美しきキリシタン青年・厨子丸はこの騒動に巻き込まれて都を追われ、彼に想いをよせる美女・鵯(ひよどり)とともに、境に身を寄せることになる。

 鍛冶職人の村に生まれ育ち、南蛮渡来の火縄銃を改造して近代的な短銃に作り替えたりする特異な才能の持ち主である厨子丸は、独立独歩の商業都市・堺の財力を借りて、各種の近代兵器を製造、境を乗っ取ろうと攻めてくる弾正に対する防衛作作戦のキーマンとなってゆく。

 ――ということで、舞台は室町時代だし、忍者は伊賀・甲賀ではなく根来僧、メインのバトルも忍法対決ではなく、忍法VS近代兵器という、忍法帖としてはいろいろとイレギュラーな要素の多い作品だった。ある意味、忍法帖シリーズがいかに多様性に富んでいるかを象徴する作品のひとつといっていいかもしれない。

 忍者が活躍するのは序盤の御前試合の場面ばかりで、あとは近代兵器の前に負けっぱなしという点では、『銀河忍法帖』に通じるものがある。

 とはいえ、共通するのは忍法帖に近代兵器を持ち込んだ着想だけで、いろいろ問題ありだったあの作品よりはこちらのほうがいい。

 調べてみたら『銀河忍法帖』からこの作品に至るまでの二年間(昭和四十三~四年)に、山田風太郎はじつに七冊もの忍法帖を刊行している。

 ――まじですか?

 決して傑作とはいえない作品ばかりとはいえ、それらの一遍一編がいかに創意工夫に満ちているかを知っているだけに、にわかには信じがたい創作力。

 あらためて山田風太郎って本当に天才だったんだなと思った。

(May. 11, 2025)

4321

ポール・オースター/柴田元幸・訳/新潮社

4321

 去年亡くなったポール・オースターの翻訳最新作。

 これが遺作かと思っていたらそうではなく。このあとにもう一冊長編があるらしいのだけれど、でもいっそこれを遺作ということにしてしまったほうがいいのではないかと思った。それほど圧巻の出来映えだった。

 内容はもとよりボリュームもすごい。B5版上下二段組八百ページ。活字も小さめで、老眼が進んだ昨今、読むのが大変だった。ポール・オースターって比較的コンパクトな小説を書く人というイメージだったので、まさか晩年にこんなスティーヴン・キングばりの超大作をものするとは思ってもみなかった。

 とにかく、その破格のボリュームといい、特異な着想といい、物語の豊饒さといい、まさに小説家ポール・オースターの集大成と呼ぶにふさわしい傑作だと思う。

 内容はアーチー・ファーガソンという青年の半生を描いたもの。「1.0」と題した序章でアメリカに移民してきた彼の祖父から始まる家族史を語り、そのあとファーガソンの物語が幼少期から紐解かれてゆく。

 つづく本編は第一部が1.1、1.2、1.3、1.4、第二部が2.1、2.2……と、以降もそれぞれ四章構成にわかれている。この小数点以下の表記がミソだ。

 第一部を読み進めて、章を跨いだところで、あ、これはそういう小説?――とその特異性に気づき、2.2章まで読んだところで予想外の展開に驚くとともに、あぁ、じゃあタイトルはそういう意味?――とオースターがその数字に仕掛けた意味を悟ることになる。で、そこまで読むともうつづきが気になって手が止まらなくなる。

 それにしても、柴田さんも訳者あとがきで書いていることだけれど、とにかくこの小説はあらすじが書きにくい。物語的な難解さはないのに、こんなにもあらすじが書きにくい小説も珍しい。

 いや、書きにくいというか、書いちゃ駄目というか。

 ミステリでもないのに、絶対にネタバレ禁止で、なにも知らずに読んだほうがいい小説があるとしたら、それがまさにこれだ。申し訳ないけれど、ここまで書いてきた分だけでもう十分ネタバレな気がする。

 とりあえず、途中にディケンズの『デヴィッド・カパフィールド』に関する言及もあるし、これほどのボリュームだから、自らの人生を振り返って、ああいう大河小説を書いてみせたのかと思ったら、そうではないところにも意外性があった。

 あまりのボリュームに読むのが大変だったけれど、苦労して読むだけの価値のある傑作。一度読んだだけではきちんとすべてを把握しきれなかったので、これはいずれ絶対に再読しなきゃならない。今年のナンバーワンはおそれくこれだろう。

 ポール・オースターさん、素晴らしい小説をありがとう。

 あなたに神の祝福を。

 黙祷。

(May. 17, 2025)

村上ラヂオ

村上春樹/新潮文庫/Kindle

村上ラヂオ(新潮文庫)

 村上春樹のエッセイは好きじゃないといいつつ、この本を読むのはこれが二回目になる。

 最初に読んだのは文庫化された2003年のこと。

 記憶が定かじゃないけれど、おそらくそのときの印象がよくなかったからだろう。続編の二冊は読まずにスルーしてしまった。

 同じ理由で『村上朝日堂』と『村上朝日堂の逆襲』は読んでいるのに、『村上朝日堂はいほー』と『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』は読んでない――っぽい。読んだつもりでいたけれど、少なくても本棚にも記録にもないから、『村上ラヂオ』と同じように、前の二冊でもういいやって思って、つづきは読まずにすませてしまったんだろう。

 ということで、あらためて確認してみたところ、現時点で僕が読んでいない村上春樹のエッセイは『村上朝日堂はいほー』『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』『村上ラヂオ2』『村上ラヂオ3』『雨天炎天』『辺境・近境』の六冊だった。

 『ランゲルハンス島の午後』と『日出る国の工場』もエッセイ集に含めるのならば八冊。そのほかにも安西水丸氏や佐々木マキ氏ら、イラストレーターとのコラボ作品で読んでないものがけっこうあって、さらには翻訳の絵本が二十冊もある(活字が少ない本をないがしろにしがちな性分)。

 翻訳も含めれば、これまでに村上さんの手掛けた本を百冊以上は読んできているので、全作品コンプリートするのも間近だろうと思っていたのに、まだまだ未読の本がそんなにあったとは……。

 ということで、さすがに絵本にまで手を出すお金も時間もスペースもないけれど、絵本以外の作品についてはなんとかしたいと思っているので、その手始めということでこれを読みました。

 ――って。いやだから、これはすでにもう読んでいるのだけれども。

 Kindleでつい三冊セットで買ってしまったので、せっかくだから再読しました。

 春樹氏のエッセイってどう考えても余技の部類だし、寝る前にKindleで読むくらいがちょうどいいかなと思って、今回は電子書籍にした。

 そしたらほんとにちょうどよかった。途中で寝落ちしても後悔しないし、「なんで俺はこんなものを読んでいるんだろう?」と疑問に思うこともなく、それなりに楽しく読めた(まぁ、あくまでそれなりに)。二度くらい笑いもした(ひとつはイタメシ屋のカップルの話。もうひとつは……すでになんだったか忘れた)。春樹氏の文庫本って解説なしのものがほとんどなので、巻末にイラストレーターの大橋歩さんのあとがきがあるのもなにげに嬉しい。

 唯一残念だったのは表紙。

 この作品は大橋歩さんとの共作という扱いで、本に収録された大橋さんのイラストがすべて収録されているのに、表紙はその限りではない。

 電子版に書籍と同じ表紙がついていないのが現状のデフォルトだとしても、仮にもイラストレーターの名前を冠して、その人のイラストを満載した本に、書籍版の表紙を飾ったイラストが収録されていないって、そんなのありですか?

 ――いや、正確にいえば、表紙に使われているイラストは本編から流用されたものだから、そのイラスト自体は収録されている(「小さな菓子パンの話」というエッセイの挿絵)。とはいえ、本の表紙はそれ自体が本の一部だと思うので、そこはやっぱ電子書籍でもちゃんと収録して欲しい。ないとさびしい。手にとって紙の感触が楽しめない電子書籍だからこそ、表紙を愛でる楽しみまで奪わないで欲しい。

 電子書籍だといまだ解説が省略された本も多いし、日本でKindleが発売になってからすでに干支がひとまわりしているにもかかわらず、いまだ電子書籍の出版事情は過渡期を抜けきっていない気がする。

(May. 13, 2025)

ファイト・クラブ

チャック・パラニューク/池田真紀子・訳/ハヤカワ文庫/Kindle

ファイト・クラブ 新版 (ハヤカワ文庫NV)

 名作と名高いデヴィッド・フィンチャー監督の同名映画の原作。

 作者のチャック・パラニュークの作品を読むのはこれが初めてだけれど、この作品に関しては、映画がとても原作に忠実なつくりになっているので、初めて読む気がしなかった。

 物語の主人公は、重度の不眠症に悩む保険調査員。難病に苦しむ人たちと接することで得られる安眠効果を求めて、病気でもないのにさまざまな互助会に偽名を使って出入りしている。

 そんな彼の人生がふたりの人物との出逢いにより次第に変容してゆく。

 ひとりは自分と同じように詐病さびょう(仮病と同じ意味。初めて聞いた)で会に出入りしているマーラ・シンガー。もうひとりはさまざまな夜間の職を転々としている破天荒なタイラー・ダーデン。

 タイラーに誘われて始めた路上での殴り合いは、やがて第三者を巻き込んでファイト・クラブという秘密結社の形を取るようになり、次第にエスカレートして、ついには社会を揺るがすテロ集団へと変じてゆく。

 日本の小説のように改行の多い簡素な文体は、不眠症を患う主人公の見た白昼夢か悪夢かという物語の雰囲気によくあっている。偽名ばかり使って本名をあかさない語り手の独白はそのままに、省略された部分を映像で補ってみせた映画の出来映えも見事だ。

 僕がよくわからなかった映画のラストは原作では違っていて、映画の派手なカタストロフは原作にはない。でもって、わかりにくくなっているのはその映画向きのアレンジのせいなのが原作を読んでわかった。この小説の終わり方は『ライ麦畑』っぽい。

 まぁ、なんにしろ最初から最後まで人騒がせな人たちの話。『時計じかけのオレンジ』なんかに通じるピカレスクロマンだと思う。

 つまり僕みたいな小市民は苦手なタイプの作品。

(May. 22, 2025)

村上ラヂオ2 -おおきなかぶ、むずかしいアボカド-

村上春樹/新潮文庫/Kindle

村上ラヂオ2―おおきなかぶ、むずかしいアボカド―(新潮文庫)

 『村上ラヂオ』と題したエッセイ集三冊は、どれも『anan』に連載したエッセイをまとめたものとのことで、前作は2000年からの一年分だった。

 つづくこの二冊目には、2009年に再開して、その後二年間つづいた連載の、前半の一年分がされている。次の三冊目がその後半。

 ということで、最初のやつとこれとの間にはおよそ十年のスパンがある。

 『村上ラヂオ』を書いたのは、春樹氏が五十一歳のころ。

 この続編は、六十歳のときに連載が始まっている。

 ちなみにいちばん古いエッセイ集『村上朝日堂』は、1984年に刊行されている。ときに春樹氏は三十五歳。

 要するに『村上朝日堂』からこの本までのあいたには、四半世紀の時が経過していることになる。

 この時点ですでに春樹氏は還暦を迎えている。さすがにその年になると『村上朝日堂』で僕をへきえきさせた狭量さも影を潜めて、ずいぶんと読みやすくなった――と言えればよかったのだけれども。

 うーん、あまり変わっていない気がする。

 たとえばこの本の『ちょうどいい』というエッセイで春樹氏は「自分のことを「おじさん」とは決して呼ばない」と書いている。

 「私はもうおじさんだから」と口にした時点で、人は本物のおじさんになってしまうからだ。

――とのとこなのだけれど。

 でもそのあと「人というものは年齢相応に自然に生きればいいし、無理して若作りするような必要はまったくないと考えている」ともおっしゃる。

 でもだとしたら、べつにおじさん、おばさんと呼ばれたってよくない?

 うちの奥さんも「おばさん」と呼ばれるのを嫌がるけれど、でもおじさん、おばさんって、本来その言葉自体にはネガティヴな意味はないと思うんだよね。単に中年男性、中年女性に対する愛称でしょう?

 「おじさん」という言葉を厭う姿には、どうしたって若さに対する過度な執着が透けて見える。「イケオジ」なんて言葉でイケてる中年男性を「おじさん」とは区別する風潮には、どうしたって「おじさん」は格好悪いものだという世間一般の共通認識がへばりついている。「私はおじさんだから」という人たちだって、結局そこに乗っかっちゃっているわけでしょう?

 打破すべきは、若さばかりを尊び、まるで年を取ることを悪いことのように思わせる、そうした世間の風潮ではないかと――。そんな風に思う昨今。

 かくいう僕はどちらかというと年齢不詳で、二十代のころから体形も髪形も服装も変わらないせいで、年よりも若く見られることが多いけれど、さすがに最近はそれもどうかと思うようになった。やっぱ還暦も近くなると、年相応の貫禄とかあったほうが生きやすい気がする。見た目のみならずメンタルまで、いつまでたっても十代のころと変わらない自分が最近はいささか気恥ずかしい。こんな文章しか書けないしねぇ……。

 というようなことなことを毎回つらつらと考えさせられるのが村上春樹という人のエッセイだったりする。彼の人のエッセイは、その小説とは違って、昔からあちこちに引っかかりるところがあって、いまいち快く心に響かないのだった。

(May. 23, 2025)

スローなブギにしてくれ

片岡義男/角川文庫

スローなブギにしてくれ (角川文庫)

 片岡義男は僕らが高校生のときに一世を風靡した小説家だと思っていたんだけれども、さて本当にそうだったのか、いささか自信がなくなってきた。

 作品が映画化されているわけだから、その当時は人気はあったんだろうけれど、ではどれくらい?――というのがいまいちピンとこない。

 ウェキペディアをみると、それ以降もコンスタントに小説を発表してきているようだけれど、いまやベストセラー作家として名前を聞くことはとんとないし、いったいどういう読者がついているのか、いまいち見えてこないというか。

 僕は高校時代に、そのタイトルに惹かれて、浅野温子主演で映画化された『スローなブギにしてくれ』を観て、本も読んでいるけれど、でも好きだったかといわれると微妙だし――というか、正直なところ、どちらもそれほどおもしろいとは思わなかった(南佳孝が歌った主題歌はひたすら好きだった)。

 でもそれって、当時の僕がミステリとSFしか読まない文学性の低い読者だったからで、いま読んだら、もしかしておもしろかったりするのかも?

 ――と思ったのは、十年くらい前に朝日新聞で連載されていた『豆大福と珈琲』という小説がけっこう好きだったから。こういう作品を書くのだったら、ほかの作品も読んでみたいなと思った。

 よし、こんど片岡義男を再読してみよう――と思ったところから、ずるずると時が過ぎて、現在に至る。

 ということで、四十年ぶりとかで読んだ片岡義男の短編集。

 安かったからつい文庫本を買ってしまったけれど、しまった、本棚を探せば高校時代に読んだ本があるはずじゃん!――と、あとから思った。

 でも、今回入手したのは2001年に刊行された改訂版で、収録作品が一部変更になっていて、旧版には入っていなかった『マーマレードの朝』が収録されている。

 『スローなブギにしてくれ』と『マーマレードの朝』は、僕がその当時タイトルに惹かれて読みたいと思った片岡義男の代表作なので、その二作品を一冊で両方読めたのはもっけの幸いだった。

 ただ、再読の結果、若いころにはわからなかった文学的魅力を再発見できたかというと、残念ながらそうはいかない。

 作者があとがきで書いているように、編集者から売れる小説を書くよう促され、当時若者に人気だった少女マンガを意識して書き上げたという表題作他は、さすがにそういう経緯の作品だけあって、風俗小説の域を出ていない。どの短編も七十年代の風俗に深く根差していて、いま読むとやたらと時代錯誤な感が否めない。

 だって、ほとんどのヒロインが男に殴られてんですよ? 猫は車の窓から投げ捨てられちゃうし、高校生も当然のようにタバコを吸っている。DVに動物虐待に未成年の喫煙。いまの時代だったら許されない行為のオンパレード。これを読んだいまどきの若い人はどう思うんだろう。よくわからない。

 まぁ、昭和レトロがブームだというし、そういう時代の空気を色濃く残した作品という意味での価値はあるのかもしれない。「ワルな男はカッコいい」みたいな昭和期だからこそのずれたヒロイズム。それをはぎ取ったあとに残るコアな部分にはちゃんとした文学的価値があるのかもしれない。けれど、うろんな僕にはそれを読み取れない。

 この本とそう変わらない時期にデビューした村上春樹がいまや日本を代表する作家として唯一無二の存在となっているのは、その手の時代性に捕らわれない小説を書きつづけているというのも大きいんだろうなぁと思った。

(May. 24, 2025)

パット・ホビー物語

F・スコット・フィッツジェラルド/井伊順彦・今村楯夫・他訳/風濤社

パット・ホビー物語

 十年くらい前に出たフィッツジェラルドの短編集。

 後期の代表作であるパット・ホビーものを集めたアンソロジーで、書店で見かけてお~、と思って内容もあらためず買い求めたのだけれど、いざ読もうと思ったら、翻訳者は連名だし、出版社も聞いたことのないところで、あれ?っと思った。

 ふだん読んでいる翻訳本はひとりの翻訳家が全編を訳しているものがほとんどで、連名になるのは企画もののアンソロジーだけというイメージなので、特定の作家の新訳が、こういう風に複数の人――表紙に名前のある井伊順彦、今村楯夫のほかに、中勢津子、肥留川尚子、渡辺育子という計五名の方々が翻訳を手掛けてる――で手分けして翻訳されているという形に戸惑った。

 まぁ、そのせいで短編ごとに文体がぶれて読みにくいとかいうことはなかったし、装丁とかもいい感じなので、内容については文句はないのですが。

 ただボリューム的にも大したことがないし、これくらいだったらひとりの翻訳家にまとめて翻訳して欲しかったというのが素直な気持ち。本を読むという行為は書き手と読者の一対一の対話みたいなものだと思っているので、それが一対五になると、なんとなく気分的にすっきりしない。まぁ、単なる好みの問題かもしれないけれど。

 あと、この本はチャールズ・スクリブナーズ・サンズから出版された短編集『The Pat Hobby Stories』の全訳だと解説にはあるけれど、奥付のクレジットにはその出版社の名前はないし、そもそもその本が刊行されたのはフィッツジェラルドの死後二十年以上が過ぎた六十年代で、つまり作者が責任をもって刊行した公式の短編集というわけではないのに、そのことに関する言及がないのも気になった。

 すでに著作権が切れてパブリック・ドメインに入った作品だから、とくにクレジットを明記する必要はないんだろうけれど、でもフィッツジェラルドの「最晩年の短編小説集」とか紹介したら、生前に作者の了解の上で出版された本だと思ってしまう人もいるだろう。少なくても僕は、あれ、こんな短編集あったっけ? と首をひねった。

 ということで、翻訳本としての体裁にはいささか疑問を感じたものの、こと内容に関しては文句なし。こうやってパット・ホビーものの短編をまとめて読めるのはとても貴重で得がたい体験だった。

 この本の中でフィッツジェラルドは、自身の分身である四十九歳の落ちぶれた脚本家がハリウッドの撮影スタジオで営むその日暮らしを、一遍十ページ強というコンパクトなサイズ感で次々と活写してゆく。

 ここにあるのは、かつてのような直接的な悲しみではなく、どうしようもない情けなさだ。読んでいると情けなくていたたまれない気分になる。でも、そのいたたまれなさの裏には、かつてと同じ悲しみが――癒されない孤独感が――深く根をはっていることが感じとれる。全編笑いのオブラートに包まれているけれど、その中にあるものは確実に苦く悲しい。

 けれどこれらの作品では、そうした悲しみは決して表には出てきていない。かつてはフィッツジェラルドの題名のようだったとめどない悲しみが、ここでは自虐的な苦いユーモアにとって替わられている。晩年のフィッツジェラルドがこういう境地に達していたという事実が、カラカラとした乾いた笑いとともに胸に響く。パット・ホビー・シリーズの短編は、こうやって連作としてまとめて読んでこそ、その真価を発揮するたぐいの作品だったんだなと改めて思った。

 形はどうあれ、この短編集を刊行してくれた出版社と翻訳者の方々に感謝を。ケチをつけてすみませんでした。

(May. 28, 2025)

村上ラヂオ3 -サラダ好きなライオン-

村上春樹/新潮文庫/Kindle

村上ラヂオ3―サラダ好きのライオン―(新潮文庫)

 二冊目のときに書いたように、『村上ラヂオ』と題したエッセイ三部作には、一冊目と二、三冊目のあいだに十年近いインターバルがある。

 あいだが空いたことで若干編集方針が変わっていて、最初のときにはエッセイ一本につき、二枚のイラストが添えられていたのが、再開後は一枚になった。あと、エッセイの終わりに「今週の村上」と題した近況報告的な一文が添えられるようになった。

 この「今週の村上」は、ほとんどが本編に輪をかけてどうでもいいような話なのだけれど、その中にひとつだけ――まぁ、僕の記憶に残っているなかではひとつだけ――うん、なるほどそれはその通りと思ったことがあった。それが、

 水洗トイレに「大小」というレバーがあるけれど、あれは「強弱」じゃいけないんでしょうか?

 というもの(『村上ラヂオ2』収録の「タクシーの屋根とか」)。

 ほんとどうでもいい話だけれど、これにはなるほどと思った。

 いずれにせよ、長編小説のそれとは違って、エッセイで春樹氏の語る言葉の多くは、僕の感覚からズレていて、あまり共感するところがない。

 若いころは同族嫌悪のようなものかと思っていたけれど、こうやっていまの自分と近い年齢のころに書かれたエッセイ集を三冊つづけて読んでみると、僕と村上春樹氏には似たところがほとんどないような気がする。

 もしも知り合いになれたとしても、到底なかよくしてもらえなさそうだなぁ……とか思ったけれど、まぁ、そんな機会は金輪際ないだろうから、気にしてもせんかたなし。

 エッセイの好き嫌いはおくとして、僕は今後も一読者として村上春樹氏の作品(主に長編小説)を愛読しつづける所存。

(May. 26, 2025)