STRAY SHEEP
米津玄師 / CD+BD / 2020
もしもひとつの音楽作品が事件となりうるとするならば、これはまさにそういう作品だと思う。
予定調和的な大ヒットを記録した米津玄師の五枚目のフル・アルバム。
人気ドラマや映画の主題歌だった『Lemon』『馬と鹿』『感電』『海の幽霊』に、大ヒットしたFoorinの『パプリカ』と菅田将暉の『まちがいさがし』のセルフカバー、さらにはRADWIMPSの野田洋次郎とのデュエット曲まで収録されているんだから、もう話題にこと欠かない、バカ売れして当然というアルバムなのだけれど――。
この作品がすごいのは、その記録的なセールスに負けないほど完成度が高いこと。
メロディーメイカーとしても、ボーカリストとしても才能のある人だと思うけれど、このアルバムを聴いて僕が感銘を受けたのは作詞家としての側面。
僕は今回この文章を書くために歌詞を読みながらアルバムを通しで聴いてみて、その歌詞のすごさに改めて感心した。『馬と鹿』の「ひとつひとつなくした果てに/ようやく残ったもの」という歌詞からサビの「これが愛じゃなければなんと呼ぶのか」というフレーズに入るところなんて、これ以上どうしたらいいんだってほど感動的じゃないですか(――なのになぜにそのタイトル)?
このアルバムに限らず、これまでにリリースされた米津玄師の楽曲はほぼすべてが日本語だけで成り立っている(ぱっと思いつく例外は個人的に大好きな『クランベリーとパンケーキ』だけ)。そこには――若いころに曲を書いたことのある僕のような凡人がよくやったような――安直な英語のフレーズに逃げる姿勢がいっさいない。専門の作詞家だって、こんなに正攻法で感動的な歌詞をこれほど量産できないんじゃなかろうか。
いまだ日本にロックが普及しきっていない時代に、桑田佳祐が洋楽のマナーや断片的な英語の歌詞を意図的に作品に盛り込むことで、その後のJ-POPの基盤を作ったといっても過言じゃないと思うのだけれど、米津玄師や彼と同世代のアーティストたちの音楽はそこから一巡して、洋楽コンプレックスをいっさい感じさせないところに新しさを感じる。べつに洋楽を聴かないことはないんだろうけれど、洋楽を過度に神格化していないがゆえに、ニュートラルに日本語と向き合って曲を作れている気がする。
そもそも、米津玄師やヨルシカのn-bunaのようにボカロから音楽に入った人には、歌詞に英語を使うという選択肢がはなからないんじゃなかろうか。コンピュータに自分が話せもしない英語の歌を歌わせて、人に届く歌が作れるわけがない。ならば最初から日本語だけで歌を書くのは当然――そんな姿勢が一貫しているように思う。
――まぁ、僕がボカロPをこのふたりしか知らないからそう思うだけなのかもしれないけれど。
いずれにせよ、そうやって初めから日本語だけを前提に生まれてきた印象のある米津玄師の歌に、僕は昭和歌謡に通じる日本のポップスとしての正当性を感じる。こと歌詞に関して言うならば日本の歌謡曲のストロング・スタイルといっていいんじゃないだろうか。それがメランコリックなマイナー調のメロディとともに、DTM世代ならではの最新のサウンド・デザインに乗ったダンス・ミュージックとして提供されるのだから、これが最強でないはずがないでしょう?
先にあげた有名曲はもとより、『PLACEBO』(野田洋次郎とのコラボ)や『ひまわり』、ラストの『カナリア』なんかも、なぜこれがシングルじゃないんだってくらいのキャッチーさだし、YouTubeで聴いたときにはそれほどいいと思わなかった『海の幽霊』なんかも、このアルバムで繰り返して聴いているうちに、とても好きになった。とくにタイトルが出てくるサビの締めの部分がものすごく感動的。もうほんと、このアルバムは全編捨て駒なしの高品質。いずれ米津玄師のベスト・アルバムを作るとしたら、このアルバムの収録曲が半分以上を占めてしまうんじゃなかろうか。
でもって、なによりの驚きは、そんな極上の音楽が、歌詞もメロディーもサウンドも歌も――さらにはアートワークまで含めて――米津玄師というたったひとりの個性から生まれてきたというあり得なさ――。
どんな才能だ、それは。天才にもほどがある。
これほど素晴らしい才能を持ったアーティストが二十一世紀最大規模のセールスでもって日本中に受け入れられたという意味でも、これは日本音楽史上に残るマスターピースではなかろうかと思います。
(Oct. 25, 2020)