2007年1月の本

Index

  1. 『マイ・ロスト・シティー』 スコット・フィッツジェラルド
  2. 『グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド
  3. 『グリュフォンの卵』 マイクル・スワンウィック
  4. 『冷血』 トルーマン・カポーティ
  5. 『獣どもの街』 ジェイムズ・エルロイ

マイ・ロスト・シティー

スコット・フィッツジェラルド/村上春樹・訳/村上春樹翻訳ライブラリー(中央公論新社)

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 フィッツジェラルドという人は、僕に短編小説の文学的な価値を知らしめたという意味で、あとにも先にも唯一無二の存在だ。
 僕はこの人の作品を読むまで、あまり短編集というものが好きではなかった。やはり同じページ数の本を読むのならば、50頁ごとに登場人物が変わって、新しい世界になじみ直さなくてはいけなくなる短編よりも、最初に飛び込んだ大きな流れに身を任せていればいい長編のほうが読みやすい。若い頃の僕はそう思っていたし、まあ基本的には、いまでもそう思っている。それは要するにあまり活字になじんでいないということの証拠なんだろう。活字を読むこと自体に喜びを覚えてしまうような人は、作品の長短なんて関係ないのだろうから(活字中毒の人々に幸あれ)。
 現在の僕にはすでに短篇集を読むことに対しての苦手意識はなくなっている。時にはわずかなページ数でより多くの物語と出逢えることを歓迎できるようにもなっている。年をとったことの効用もあるんだろうけれど、それよりもある時、短篇小説において味わえる感動が、長編のそれを上回ることだってあるんだということを知ったのが大きかった。そして僕にそんな感動を味わわせ、変化をうながすきっかけとなった本というのが、大学四年のときに読んだフィッツジェラルドの短篇集だった。
 僕がそのときに読んだ短篇集というのが、村上春樹氏が初めて翻訳を手がけたこの『マイ・ロスト・シティー』だ、と言えればよかったのだけれど、残念ながらそうじゃない。いまでは絶版になっている角川文庫の、飯島淳秀という人が訳した『雨の朝パリに死す』というタイトルのやつだった。
 『雨の朝パリに死す』というのは、フィッツジェラルドの珠玉の短編、『バビロン再訪』の映画版のタイトルで、本の表紙もその映画のスチル写真を使ったものだった。正直なところ、あまり趣味がいい本だとは言えない。ところがそんなハリウッド的な装丁にもかかわらず、その本は文学的に深く僕の心を揺さぶった。それはそれまでに経験したことのないたぐいの感動だった。それがどんな種類のものだったか、残念ながらうまく説明できない。けれどその本から受けた感動の余韻は、あれから十八年が過ぎたいまもまだ、僕のなかに残っている。
 その時点で僕はすでに『グレート・ギャツビー』を読んでいたけれど、あの長編からはそれほど感銘は受けなかった。この『マイ・ロスト・シティー』も── 記憶がさだかじゃないけれど、わが家にある文庫版は昭和六十二年(1987年)発行の第八版だから──その頃にはすでに読んでいたのだと思う。ただ、この本についてはフィッツジェラルドの作品そのものよりも、冒頭に収録された『フィッツジェラルド体験』というエッセイのほうが強く印象に残っているくらいだから、特に感動したでもなかったんだろう。
 そんな風に僕は当初、あまりフィッツジェラルドに惹かれていなかった。だからなおさら『雨の夜パリに死す』という短編集から受けたインパクトが強烈に感じられた部分もあったのだと思う。
 もっともその本に収録された『冬の夢』『金持ちの青年』『バビロン再訪』の三編は掛け値なしの傑作だ。これらはその後に春樹氏が自ら訳していることでもわかるように、やはりフィッツジェラルドの代表作だと思うし、僕自身、いまだにほかのどんな小説よりも強い愛着を抱いている短編であったりする。そういう意味ではその本が僕の心に強く響いたのも当然のことだったと思う。
 この『マイ・ロスト・シティー』という短編集については、それらの珠玉の短編がすでに訳出されたあとで、翻訳がないものを中心に編纂されたという経緯もあって、やや地味な印象になってしまっている。なので、まだまだ英米文学経験の浅かった(いまだに浅いけれど)大学中期の僕が楽しめなかったのも仕方ないかなと思う。それでもいまになって読み返してみると、これがどれもとても素晴らしい。『氷の宮殿』や表題作のエッセイなんて、それまで翻訳されていなかったというのは、いったいどういうことなんだろうと不思議に思ってしまうくらいだ。
 冒頭のエッセイにおける春樹氏の文章にも、初めての翻訳(しかも最愛の作家の)と言うことで、ちょっとばかり若気の至り的な気負いが感じられて、それがいま読むとなかなかおもしろかったりする。当時の僕は、春樹氏が導入部で開陳している「作家が読者を魅了する」様々なパターンというやつを自分のロック体験にあてはめて、ああなるほどと一人合点していたものだった。そんなことを思い出させる、懐かしい一冊だった。
(Jan 06, 2007)

グレート・ギャツビー

スコット・フィッツジェラルド/村上春樹・訳/中央公論新社(愛蔵版)

愛蔵版 グレート・ギャツビー

 恥ずかしながらこの小説は僕がこれまでの人生でもっとも数多く読み返した小説だったりする。
 なぜ恥かしいかと言えば、読み返すことになった理由が、村上春樹氏のようにこの作品を愛しているからではないからだ。僕にはこの小説の魅力を十分に捕らえられないがゆえに、読み返し続けざるを得なかったというところがある。
 まあたくさん読んだと言っても、たかが知れてはいる。最初に大学の授業で原文を読まされ、当然わからないから翻訳を読むことになり、卒論ではフィッツジェラルドを論じる際に必要に迫られて再読し、失業中には辞書につきっきりで原文を精読し、という感じ。うちには原書と翻訳で5冊か6冊、この小説が収録された本があるけれど、読んだ回数は両方あわせても二桁に届かないのだから、大騒ぎしちゃいけないのかもしれない。少なくても暗記するほど読んだという春樹氏の足元にもおよばない(比較すること自体がおこがましい)。それでも根が欲ばりで、死ぬまでに一冊でも多くの本を読みたいと思っている僕にとって、同じ作品をそれだけ繰り返して読むと言うのは、やはり例外的なことなのだった。
 春樹氏が熱烈に主張するように、僕もこの小説が「すごい作品」であるということには異存がない(だから何度も読んでいるわけだ)。けれど、だからといって無条件に好きかと言うとまた話は別。この小説はその精微なカットゆえに感動せざるを得ない美しい宝石のような作品だと思う。そして僕は得てしてそういうものには距離を置かないではいられない性癖がある。カジュアルさを信条とする平衡感覚が、純粋な美や芸術性というものをたたえることを否定してしまう部分がある。18カラットのダイアモンドよりも履きなれたジーンズのほうが大事だと思う感覚が、あまりに隙のないこの小説を過度に賞賛することを僕に拒ませている(単にひねくれているだけかもしれない)。
 ロックにたとえれば、ビートルズの『サージェント・ペパー』みたいなもので、完成度の高さは認めるし、好きなことは好きなんだけれど、でもおれはとっちらかったホワイト・アルバムのほうが愛着があるんだよなあ、みたいな。基本的に完成度が高いものよりも、破綻した部分があるもののほうに愛着を感じてしまうのは、僕のロック・ファンとしての業のようなものだ。だから僕はあまりに完璧な『ギャツビー』よりも、そのプロトタイプともいうべき『冬の夢』や『リッチ・ボーイ』などの短編小説のほうを好むことになってしまう。
 それにぶっちゃけた話、「なんだよ『ギャツビー』ばかりが注目を浴びて愛蔵版まで出ちゃってさ。最初の長編二作なんて翻訳出てないんだぞ。こんちくしょうめ」みたいな思いもかなりある。
 そりゃフィッツジェラルドといえば、まずは『ギャツビー』だろう。でもそれにしたってほかの長編をもっとちゃんと翻訳してくれる人がいたっていいんじゃないだろうか。この人の長編は未完のものを含めてもわずか5作しかないというのに、そのほとんどが無視されたままってのはどういうことなんだと言いたい。そもそも『ギャツビー』を傑作だと思う人ならば、その傑作を書きあげた作家のほかの長編だって読んでみたいと思うのが当然じゃないだろうか。なのに現状『ギャッツビー』以降の二作は絶版、最初の二作は翻訳さえされていない(少なくても僕は存在を知らない)。これはいったいどういうことなんだろう。
 本当に僕は長いあいだ、そうしたフィッツジェラルドの長編小説にまつわる出版状況を不満に思ってきた。そこへ登場したのがこの村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』だ。またもや『ギャツビー』だもの。たとえそれが春樹氏にとってどれほど思い入れのある作品であろうとも、以上のような経緯でほかの長編の翻訳を待ちわびてきた身としては、どうしても素直に歓迎できない気分になってしまうのだった。
 まあ文句ばかり並べてしまったけれど、この新しい翻訳自体はとてもいい。少なくても最初のページを比べただけでも、野崎訳よりも読みやすくなっていると思うし、ニックが年相応の若さを感じさせる点でも好感が持てた。ただ、いままで書いてきたような諸々の思いがある上に、基本的に僕はそれほど文体にこだわるタイプの読者じゃないので──それはイコール読書人としてまだまだ未成熟だということなのだろうけれど──、春樹訳のおかげでこれまでより感動した、とかいうことはなかった。この新訳を素直に喜べる人たちがちょっと羨ましい気もする。
 この本について、翻訳とは関係のない些細な点で残念なのは、注釈が各章の終わりの文章と同じページに掲載されてしまっている点。おしまいの伝説的な名文のあとに、そのまま注釈が続いてしまっているのは、まるで映画が終わった途端に間髪いれずにコマーシャルを見せられてしまったみたいな感じで、読了後の余韻を味わう上でマイナスだと思う。せっかくの新訳なのだから、できればページのレイアウトにまで気を配って、注釈は別ページにして欲しかった。
 なにはともあれ、この翻訳は当然のことながらとても話題になっているみたいだし、願わくばこれを機にフィッツジェラルドの再評価熱が高まって、『楽園のこちら側』と『美しく呪われたもの』も翻訳が出てくれればいいなと思う。ほんとに。
(Jan 06, 2007)

グリュフォンの卵

マイクル・スワンウィック/小川隆、金古浩、幹遥子・訳/ハヤカワ文庫SF

グリュフォンの卵 (ハヤカワ文庫SF)

 普段SFはまったくといっていいほど読まないのだけれど、この本は「1999年から2004年にかけてヒューゴー賞をたてつづけに受賞!」という帯の文句に惹かれて、なんとなく読んでみようという気になったもの。以前、同じように直感で「これはおもしろそうだ」と手にしたダン・シモンズの『ハイペリオン』シリーズが、この十年間のベストテンに入るってほどの傑作だったのも影響している。世の中には僕の知らない素晴らしい小説がまだまだあるのだろうし、たまにはSFを読むのも、世界をひろげる意味ではいいだろうと思った。これ以上ひろげてどうすると思う部分もあるけれど、なにごとにも浮気っぽい性格はそう簡単には治らない。
 とにかくこれはヒューゴー賞の短編賞受賞作5編のほか、大半がなんとか賞の受賞作や候補作で占められたハヤカワ文庫独自編集の短編集(表題作のみ中編)。さすがにほとんどが専門家のお墨付きだけあって、どれもなるほどと思う出来の作品ばかりだった。わずかなページ数のなかにSFならではの異世界がものの見事に拡がっている。
 ただ『ハイペリオン』を読んだ時にも思ったことだけれど、最近のSFというのは見慣れない単語であふれかえっているので、あらかじめそういう世界があるんだということをお約束として受け入れてからでないと読みにくいのが特徴(もしくは欠点)だという気がする。
 例えば『スターウォーズ』や『マトリックス』のような映画ならば映像でぱっと見ればわかるものでも、小説だといちいち説明が必要になる。けれどそうしたものをひとつひとつ説明していたんでは話の流れが悪くなるし、説明的になりすぎても退屈してしまう。だからもう意味不明な単語は意味不明なままでいいから、そういう未知のものがあるものだとして、そのまま受け入れなさいと。詳しく知らなくても問題はないからと。そういう暗黙の了解が、書く側と読む側のあいだでひそかに共有されている印象を受ける。でもそんな読み方を強制されることは、普通小説の世界ではめったにない。そういう意味では、現在のSF小説というのは、やはりかなりマニアックなものになってしまっている気がする。
 ちなみに高校時代はぽつぽつとSFを読んでいた僕が、いっさい読むのをやめてしまうきっかけとなった本というのが、こうした方向性を決定づけた(と僕が勝手に思っている)サイバーパンクの金字塔、ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』だった。読んでもさっぱりわからなくて、こんなわけのわからない小説が流行るようなジャンルはもう読まなくてもいいやと思って、あっさりと手を引いてしまったのだけれど──同じような理由で筒井康隆も『虚人たち』を最後に読まなくなった──、でもこの短編集や『ハイペリオン』を読んだ感じでは、いまならばウィリアム・ギブソンも普通に読めそうな気がする。
(Jan 20, 2007)

冷血

トルーマン・カポーティ/佐々田雅子・訳/新潮社

冷血

 個人的には非常に長い間、読まなきゃと思いながら保留になっていたカポーティのノンフィクション・ノベルの傑作。
 最初に読もうと思ったのは大学時代にクラスメイトにおもしろいよと薦められた時だから、かれこれ二十年以上昔の話になる。それなのに、もとからカポーティにあまり惹かれていなかったのに加え、文庫本の殺風景な表紙が気に入らないせいで、いまひとつ手が出せないでいた作品だった。だからここへきて新訳の単行本が出たのを見つけて、渡りに船とばかりに即座に購入したのだけれど、おりからの過剰な未読本の山のせいでなかなか手が出せず、ようやく読むことになるまでに、それから一年半もかかってしまった。新潮社の翻訳本は文庫になるのが妙に早くて、その間に文庫本の方もこの新訳版に置き換わってしまっているから、なんだかちょっと損をした気がしなくもない。でもまあ、僕は基本的に上下ニ段組のハードカバーが大好きなので、いま買うとしても単行本を選んだかもしれないけれど。
 内容のほうはといえば、これまでに僕が読んだカポーティの作品のなかでは、もっとも重量感がありながら、それでいてもっとも読みやすい作品だった。ほぼ全編にわたって、具体的な描写の積み重ねのみで成り立っていて、小説のときのような観念的な部分がほとんどないためだ。カポーティ自身も物語の背後に隠れていて、ほとんど顔を出さない。ときどき記者とかジャーナリストという言葉で、ちらりと鏡に姿がうつるくらい。カポーティという作家はとてもエゴが強いという印象があるので、ここまで自己主張をしていないというのは、かなり意外だった。
 カポーティはこの作品で、1959年にカンザス州の片田舎でおこった富農一家皆殺し事件の顛末を、小説家ならではのイマジネーションを駆使して再現してみせる。事件当日の被害者一家の日常生活の描写から始めて、犯人たちが刑に処されるその日までを、私情を排した冷静な筆致で描き出してゆく。登場人物は多岐にわたる。被害者、加害者、捜査陣、そして事件になんらかの形でかかわった人たち。膨大な証言のなかから、この悲惨な事件を理解するのに必要なものを取捨選択して、足りない部分は自らの想像力で補い、それらを絶妙なバランスで積みあげて、事件の全貌を読者の前に描き出してみせている。
 この本で描かれるようなセンセーショナルな大量殺人事件があたり前のように起こる現在にあっては、対象となる事件のインパクト自体はすでに薄れてしまっている。でもこの本の価値は、そんなセンセーショナルな部分にあるわけではない。愛する人々を殺された人々の悲しみや苦悩というのものは、時代が変わったからといって、変わるものではないのだから。この作品はひとつの殺人事件を通じて、それに関係したさまざまな人々──その中には加害者自身も含まれる──の悲しみ、苦しみに形をあたえ、共有可能なものとしてみせた点で、とても貴重な作品だと思う。そしてまたそうした激しい感情が、時とともに移ろってゆくことを静かに伝えているという点においても。
 かなり読みでがあるので、読書慣れしていない人には向かないかもしれないけれど、僕のように読書は好きだけれどカポーティはちょっと苦手だと思っているような人にはうってつけの本だった。途中まで犯行の動機が隠されているため、ミステリ的な読み方もできると思う。でも単なるミステリでは味わえない、なんともいえない読了感が残る作品だ。
(Jan 28, 2007)

{けだもの}どもの街

ジェイムズ・エルロイ/田村義進・訳/文春文庫

獣どもの街 (文春文庫)

 ハリウッドを舞台に、変人刑事と美人女優のコンビが活躍するさまを描いた、長めの短編三作からなる連作短編集。帯の文句いわく「ノワールの帝王エルロイが20年ぶりに現代を舞台に描いた最新小説集」とのこと。
 主人公のリックは犀柄ファッションに身をつつみ、犬と添い寝をすることに慰めを見いだす変人刑事。彼はある殺人事件の捜査中に、彼にとって運命の女性となる(ちょっぴり変な名前の)美人女優ドナ・ドナヒューと出会うことになる。この人は銃をぶっぱなすことにエクスタシーを感じるという性癖の持ち主。リックと出会って殺人事件に関与したことで、そうした変態性欲が発露してしまい、以降この二人はともに殺人事件に関係した時のみベッドをともにするという、ゆがんだ関係を結ぶことになる。
 しがない変態刑事に対して、相手はそこそこ名の売れた美人女優。ということで、一度は関係を持ったものの、それ以降ドナはリックにとっては手が届かない存在になってしまう。それでも一度の情事で彼女の虜となったリックは彼女のことが諦められず、ドナが公の場に姿をあらわしたら連絡するよう、情報屋に金を払っていたりする。常軌を逸した彼の情熱(性欲?)のあり方が、エルロイならではだ。リックとドナの戯画的な関係はちょっぴり新機軸かなという気はする。
 一作目が83年、二作目が04年と、その間に20年以上が経過してるという点もこの手の連作では珍しい。舞台がハリウッドで語り手がすでに死んでいるという設定は、ビリー・ワイルダーの映画『サンセット大通り』を思い出させるけれど、エルロイとワイルダーじゃ水と油という感じなので、ぜんぜん無関係なんだろう。
 解説にもあるように、体言止めと語呂合わせを多用した独特の文体は、最近の作品でも特に顕著だし、内容的にもかなり下世話な表現が多いから、このところのエルロイ作品と同じく、ちょっとばかり読者を選ぶと思う。印象的には『ホワイト・ジャズ』のエッセンスを凝縮して、破天荒でコミカルな味つけをした短編三作にまとめてみました、みたいな作品。あの小説が好きな人ならばきっと楽しめるだろうし、あれをちょっとと思う人は、読まなくても後悔はしないと思う。
(Jan 28, 2007)