大いなる眠り
レイモンド・チャンドラー/双葉十三郎・訳/創元推理文庫
俗にダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドをハードボイルドの御三家という。ハメットが生みの親で、チャンドラーが育ての親、マクドナルドが正統な後継者という位置付けで(誰かにちがうと言われそうだけれど)、ハードボイルドを読むうえでは、避けては通れない作家たちだ。
ところが不思議なもので、僕はそのうちチャンドラーにだけは、これまでなぜか、ほとんど魅力を感じたことがなかった。長編7作のうち──未完の『プードル・スプリングス物語』を入れても8編──、半分は読んでいるはずだけれど、どれもいまひとつぴんとこなかった。
ハメットは『血の収穫』や『ガラスの鍵』をおもしろいと思ったし(『マルタの鷹』を好んでいないあたりに問題がある気がする)、マクドナルドにはもっと強く惹かれていて、文庫で読める作品はすべて読んでいる。なのにそのあいだにあって、評価の上ではハードボイルドというジャンルの王様というべき存在のチャンドラーだけは、なぜかおもしろいと思ったことがなかった。理由はよくわからない。
とはいっても、最後にチャンドラーを読んだのは、まだまだ読書経験の浅い高校生の頃だ。きっとタイミングが悪かっただけで、いまになって読んでみれば、意外と楽しめたりするのかもしれないなと。ある時期からはそんな風に思いながら、それでもなかなか再読の機会を作れないまま、現在に到っていた。やはりこれだけ読むべき本があると、かつて一度読んでそれほど感銘を受けなかった作家の本には手を出しにくい。
そうこうするうちに、今週になって村上春樹新訳の『ロング・グッドバイ』が刊行された。翻訳小説好きの村上春樹ファンとしては、この機会を逃す手はない。ちょうどいいので、せっかくだから未読のものも含めて、チャンドラーをすべて読むことにした(世の中にそんな人が何万といそうだ)。ということで、手始めは当然のことながら、チャンドラーの処女長編であるこの『大いなる眠り』ということになるのだけれど……。
これはちょっと翻訳が古すぎるんではないでしょうか。春樹氏が『グレート・ギャツビー』の訳者あとがきで、翻訳には鮮度があると書いているけれど、これを読むとまさにそのとおりだなと思う。なんたってグレープフルーツに「北米南部産ザボンの類」なんて注釈がついている(p.31)。いまとなると、ザボンってどんな果物だと思ってしまう僕のような読者が大半だろうから、正直なところ、時代錯誤の感が否めない。語りの部分はともかくとして、そうした風俗的な側面や、会話文の鮮度は落ちまくりだ。特にマーロウが連発する「うふう」という返答は、もう決定的に古い。
「からかっているの?」
「うふう」 (p.9)
こんな会話が、あちらこちらで交わされるものだから、ちょっとばかり困ってしまう。埴谷雄高の『死霊』を呼んだ時にも、「ちょっ」とか「ぷふい」とかいう妙な感嘆詞にやたらと違和感をおぼえたものだったけれど、明確な意味をもたない感嘆詞のようなものほど、時間の侵食をより強く受けて、風化するものらしい。
いや、一概に古いから悪いというつもりはなくて、語りの一人称が「私」で、会話文の一人称が「僕」というあたりは──いまどきのハードボイルドな探偵は僕なんて言わない印象があるので──、ハードボイルドの固定概念からずれていて、かえって新鮮だったりもした。ここでのマーロウは、ハンフリー・ボガートが『三つ数えろ』で演じた人物よりもかなり若々しいイメージがあって、なかなか好感が持てる。
ただ、全体としては、やはりちょっと古いかなあと思わせるところがあちらこちらにあり、少なくても僕はそれが気になってしまって、すんなりと物語の世界に入りこむことができなかった。なまじ、春樹氏の新訳が契機となって読むことになったため、普段よりも余計に翻訳に対して、神経質になっているのがよくなかった気もする。残念。
(Mar 10, 2007)