ロリータ
ウラジーミル・ナボコフ/若島正・訳/新潮社
タイトルと主題については知らない人はいないだろうけれど、いざ読んだことのある人となると、あまり多くはなさそうなロシア生まれの亡命作家、ウラジーミル・ナボコフの問題作、『ロリータ』。
現代社会において、おとなが青少年を性愛の対象にするというのは、数々の性的な禁忌のなかでも、もっともタブー度が高いと思う。同性愛のように両者の合意の上で成り立つものではなく、近親相姦のように先天的な危険をともなうわけでもない。おとなが性的かつ精神的に未熟なこどもを性欲の対象にするという行為には、ある種レイプに近い卑劣さがある。十歳の娘をもつ父親の身としては、それが犯罪とされるのも、もっともだと思えてしまう。
ナボコフという人は、そんな禁断のテーマを真っ正面からあつかって、とんでもない小説を書き上げてみせた。それもいまから五十年も昔に。しかも自らのネイティヴ・ランゲージではない英語で。これはまさに天才の
少女愛というタブーを真っ向から描くにあたって、ナボコフはそのショックを緩和するために、いくつもの緩衝帯を設けている。
まずは主人公をあらかじめ犯罪者として設定したこと。この小説は主人公、ハンバート・ハンバートの手記という形をとっていて、彼は殺人犯として(死刑の?)判決を待つ身という設定になっている。
殺人という最悪の罪を犯す人間ならばこそ、十二歳の少女に手を出せるわけだ。ナボコフは語り手を正真正銘の罪びととして描くことで、その許されざる内容を受け入れる準備を読者にうながす。で、彼がいかにして殺人を犯すにいたるかという、ミステリ的なおもしろさもつけ加える。
語り手の異常さというか、彼の非凡さはその文体からもあきらかだ。作者の分身ともいうべきこの人は、とにかくIQがやたらと高い。豊かな学識に裏打ちされた過剰な饒舌さは、それ自体で常軌を逸している(しかも難解)。数ページ読んだだけで、この人はぜったいに普通じゃないとわかる。実際に彼は、若いころに何度か精神病院に入ったことがあると告白している。
それでもハンバート氏は基本的には頭のいい人なので、自分の性癖が許されざるものであることはきちんと認識しているし、そのために少女を傷つけてはならないという常識的な判断力も持っている。
そんなだから、自らの願望が実現してロリータをわがものにしたあと、彼は喜び絶頂に達しながらも、同時に深い罪悪感にさいなまれることになる。歓喜と苦悩、天国と地獄のあいまにあって、さらに正気を失ってゆく。ロリータと主人公のロードムービー的な後半の記述は、虚実ないまぜとなった狂気の産物で、なにが本当だかよくわからない。
語り手は犯罪者にして精神病患者──つまり 『ロリータ』 という小説は、はなからまともではない人の物語として提供されているのだった。
さらには相手となる少女、ロリータ自身も、十二歳にしてすでに性経験のある、それなりに問題のある少女として設定されている(ちなみにロリータというのはドロレスの愛称だそうで、彼女のことを語り手は、ドロレス、ドリー、ロリータ、ローラ、ロー、Lと、さまざまな愛称で呼び分けている)。
ただ、だからといって異常者がふしだらな少女と許されざる関係を持ったという扇情的な側面だけで、ひとつの作品が文学史にその名を残し、社会的に認知されるはずもない。そこまで文学は浅はかじゃない。そうしたセンセーショナルな話題性を越える普遍的な文学性があるからこそ、この小説は五十年の歳月を越えてなお、読み継がれるべき作品として生きながらえているわけだ。ではその普遍性とはなにか?
こそばゆい言い方だけれど、それはやはり「愛」なのだと思う。
ふたりの関係がいかに人の道から逸れていようと、ハンバート・ハンバートのロリータへの狂おしいまでの激しい想いには、こちらの嫌悪感を越えて胸に訴えてくるものがある。ハンバート氏というのは、睡眠薬を飲ませて少女を眠らせて、そのあいだにもてあそんじゃおうとするような卑劣なやつだったりするわけだけれど、そんな許しがたい彼に対して、僕らは終盤、不思議と同情をおぼえることになる(少なくても僕はなった)。ロリータを失った彼の喪失感とその後の自滅的な暴走には、普遍的な悲しみがある。一方のロリータの人生にもまた、言いようのない哀れみを感じる。現実の社会では本来ならば救われざる彼らは、読者の心のなかでのみ救われる。これぞ文学の持つ力であり価値だと思う。
とんでもなく不謹慎で、やたらと読みにくいくせに、それでいてしっかりと心のすみになにかを残してゆく──『ロリータ』とは、なんとも厄介な傑作だった。
(Jun 08, 2008)