F・スコット・フィッツジェラルドがバリバリの現役だったころに刊行されたオリジナル短編集、 『All the Sad Young Men』 の全訳。
これまで日本で出版されたフィッツジェラルドの短編集は、すべて出来のよいものをセレクトした独自編集のものばかりだったから、この企画自体はとても素晴らしいと思う。これまで翻訳がなかった作品も何篇か含まれているし、読むまではとても好感度が高かった。──そう、読むまでは。
いざ、読んでみると、なんだかやたらと違和感がある。僕が思っているフィッツジェラルドのイメージと、この翻訳はなにかがずれている。冒頭の二編が 『リッチ・ボーイ』 と 『冬の夢』 という、僕もこれまでに何度も読んでいる、フィッツジェラルドの短編のなかでもきわめつけの代表作だけに、なおさらそう思った。はて、いったいなにが問題なんだろう?
結論からいってしまえば、翻訳の方向性がいま風だから、ということなのだと思う。具体的にいえば、主語を平気で省略する。現在時制を多用する。長いセンテンスを複数に分けるなどなど。おそらく読むときのリズムのよさを重視したんだろう。そうやって自由に手を入れた、文法的にみるとかなりくだけた訳文になっているのだった。古典新訳文庫というコンセプトからすると、まさにうってつけの一冊かもしれない。
ただ、これが僕の感覚にはいまいちフィットしなかった。僕はフィッツジェラルドという人を、手の込んだいい回しを好む、古典的なセンスの名文家だと思っているので、この翻訳の持つ現代風な感覚は、そんな僕の持つフィッツジェラルド像にあまりにもマッチしなかった。たとえてみれば、ジャズ・エイジのスーツ姿を期待していた人が、ポール・スミスのジャケットを着て現れてしまったみたいなものだ。
そもそも 『若者はみな悲しい』 というタイトルだって、よく考えてみるとおかしい。これでは世の中のすべての若者が一様に悲しがっているように取れてしまう。世の中には悲しむことを知らないような若者だっているわけで、そういう人たちから悲しみを知る若者たちを区別しているところに、このタイトルの意味があるんじゃないかと僕なんかは思う。
さらに言うならば、 これまで 『金持ちの青年』 や 『リッチ・ボーイ』 と訳されてきた作品を、 『お坊ちゃん』 というタイトルにしてみせたのもどうかと思う。たしかに「お坊ちゃん」という言葉は金持ちのご子息を指すのが一般的だから、意味的にはまちがっちゃいない。格好を気にせずに、そう訳してみせた思い切りのよさには、ある意味感心しもした。それでもその言葉が揶揄するところの「世間知らずのぼんぼん」というイメージは、この短編の世慣れた主人公にはふさわしくないと僕は思う(漱石じゃないんだから)。
どちらのタイトルについても、どうしてそう名付けたかは、訳者自身が巻末できちんと説明してくれている。その姿勢には好感が持てるし、それはそれでひとつの見解だと思うのだけれど、いずれにせよ僕の感覚は以上のとおりなので、やはりちょっとなあって感じだった。
じつはこの小川高義という人は先日読んだジョン・アーヴィングの 『また会う日まで』 も訳していて、あれを読んだときにも僕はけっこう訳文に違和感を感じたのだった。おなじく小川訳のジュンパ・ラヒリでは特にどうこう思わなかったので、やはりフィッツジェラルドやアーヴィングのような個人的に愛着のある作家の場合、既存のイメージが影響してしまうのが問題なんだろう。いずれにせよ僕は、優れた翻訳は訳者の存在を意識させないものだと思っているので、やたらと文体を意識させられたこの本は、あまり高く評価できないでいる。
ただし、これらすべては翻訳のよしあしというより、単に趣味の問題。僕にはこの翻訳はあわなかったというだけで、フィッツジェラルドの作品自体は素晴らしい。特にこれまで翻訳されていなかった小品が、どれも――文学性こそ高くないものの――落ちのきいたエンターテイメント性の高い作品ばかりであるところに、フィッツジェラルドのこれまで知らなかった一面が見られて、その点ではとても有意義な本だった。
ちなみに小川氏は、古典新訳文庫の次回作として 『グレート・ギャツビー』 を手がけるのだそうだ。そりゃまた「神をも恐れぬ」ならぬ、世界のムラカミをも恐れぬ、たいしたチャレンジ精神だ。僕には村上訳が世に出てまだ日も浅いこの時期に、新たにギャツビーを訳そうと思う人の気持ちがよくわからない。
(Mar 13, 2009)