ある夢想者の肖像
スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸・訳/白水社
スティーヴン・ミルハウザーの長編第二作であるこの青春小説、いっちゃ悪いが、若気の至りの感が否めないと思う。
この人の持ち味が緻密な描写力だというのは万人の認めるところだと思うのだけれど、この作品ではその持ち味が悪いほうに出てしまっているように感じる。
くどい。とにかくくどい。徹頭徹尾くどい。最初から最後まで、書き込み過ぎの感が否めない。
処女長編で十一歳の少年の生涯を伝記という奇抜な発想で描いてみせたミルハウザーは、この二作目では主人公の年齢をもう一段階くりあげ、その幼少期から高校時代までを描いてゆく。
描写が緻密すぎることを除けば、物語としてはごく普通だ。人形だらけの恋人の部屋で過ごすパートにこそ、その後の職人肌な作風の芽生えを感じさせるけれど、それ以外はとくに変わったところがない。ほんとか嘘かはっきりしない語りは多々あれど、そうした部分も決して幻想的ではない。この作品でのミルハウザーはごく普通に思春期の青年の姿を描いている。
とはいえ、主人公アーサー・グラムがはぐくむ人間関係は、それほど一般的なものとはいえない。彼がつきあうのは、自分と似た性癖を持ったふたりの友人と、病気で休みがちなガールフレンド、そして両親といとこの家族のみ。彼の青春はそんなきわめて限定的な人間関係のなかでのみ営まれている。
それでいて、まわりの人たちとの関係はつねにぎすぎすしている。彼は自分をとりまく数少ない人々との関係性にさえ満足できず、誰といても「退屈だ」を連発する。たまに見いだす楽しみや喜びも決して長くは持続しない。彼はつねに退屈な状態へと舞い戻ってゆく。ストーンズの『サティスファクション』の歌詞のごとく、アーサーはつねに「アイ・キャント・ゲット・ノー」を繰り返しているわけだ。現状に満足できないがゆえのそんな鬱屈は、まさに若さの証左かもしれない。
とはいえ、この小説の主人公はその状況を打開するすべを持たない。満足できない現状を愚痴りつつも、臆病な彼はその状況にあまんじつづける。真夜中の徘徊も、悪友との心中未遂も、恋人との秘密の結婚式も彼を変えることはない。なにがあっても彼は最終的には自宅へと舞い戻り、唯一の友人との退屈なボードゲームに興じる代わり映えのしない日常へと回帰してゆく。
そんな鬱屈した青春の日々をミルハウザーはこれでもかという緻密な筆致で執拗に描いてみせる。ときには同じ文章が一ページ延々とつづくような──これは読者への嫌がらせかと思うような──冗長な文章を交えつつ。
その筆圧の高さにはピンチョンやパワーズに劣らぬものがあるのだけれど、残念ながらこの作品のそれには、彼らのように未知の世界の扉を開けてみせてくれるような特別さがない。その過剰な筆圧はただひたすら思春期のディテールを克明に描くことに費やされる。それはときにはじつに鮮やかだ。とはいえその単調さはなんとも耐えがたい。
青春とは苦痛なほどに単調で孤独なものである──。
ミルハウザーがこの小説で描き出そうとしたのがそんな真理だというならば、その成果は見事なものだ。ほんと嫌んなるほど。
僕にはこの本、『重力の虹』よりもきつかった。
(Apr 10, 2016)