暗い抱擁
アガサ・クリスティー/中村妙子・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle
クリスティー通算四作目の普通小説。
邦題が好みでなかったので、あまり期待していなかったのだけれど、これがなかなかよかった。
この作品、ジャンル的には恋愛小説なのかもしれないけれど、あまり恋愛色は強くない。たんに謎解きがないだけで、この人のミステリのときと同じような読後感がある。
まぁ、簡単にいってしまえば、ひとりの女性をめぐる三人の男性の恋の物語ということになるんだろう。でもそのうちのひとりである語り手は、身体に障害があるがゆえに、最初から最後まで傍観者の立場にあまんじているし、話の中心人物である新進気鋭の議員候補は、育ちの悪さから貴族であるヒロインへの想いを素直には認めない。でもって、ヒロインのフィアンセは終盤まで登場しない。
というわけで、本編のほとんどをかけて描かれるのは、舞台となる地方での選挙戦をめぐっての出来事であって、恋愛小説的なあまい事件はほとんど起こらない。そもそも読んでいてもヒロインがヒロインであることさえ定かじゃない。
中期以降のクリスティのミステリには事件にいたるまでの人間関係をじっくりと描くあまり、ようやく殺人事件が起こるころには半分近くのページ数を費やしているというパターンがけっこうあるけれど、この小説はいわばそういうミステリの恋愛小説版という感じ。終盤になってようやく、恋愛がらみで事件が起こる。でもって、そこから先には急展開が待っている。いったん恋愛関係がはっきりしてからの事態の急変にはサスペンス・スリラー的な趣さえある。
とはいえ、これはあくまでも普通小説。ミステリとは違って、結末にいたってもすべての謎があきらかにされたりはしない。僕にはなぜ彼女が彼を選んだかがよくわからない。愛の謎は謎のまま、読者の理解にゆだねられている。
(Jan 21, 2018)