黄金虫変奏曲
リチャード・パワーズ/森慎一郎・若島正・訳/みすず書房
リチャード・パワーズの長編第三作。
デビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』の翻訳刊行が2000年、その次に出た第五作の『ガラテイア2.2』が2001年で、たぶんその時点でこの作品も翻訳の計画はあったはずなのに、いやー出ない、出ない。
待ちに待ったり二十年。ようやく刊行されたこの本を読んでみて、これほどまでに翻訳が遅れた理由がよくわかった。
いやはや、なにこれ? 八百五十ページ上下二段組というボリュームもさることながら、そこに盛り込まれた学術的な情報量がはんぱない。分子遺伝学、暗号論、音楽理論、コンピュータにまつわる実務的知識、百科事典的なトリビア多数、その他諸々。普通に辞書を引いていたんでは、とてもじゃないけれどこの小説は訳せない。よくぞ翻訳してくれました。この翻訳は偉業だわ。
まぁ、そういった学術的な記述がこの本の全体のどれだけのパーセンテージを締めるかわからないけれど、情けないことに僕にはそうした部分は翻訳してもらってもなおちんぷんかんぷんで、この本の大半は理解の範囲外だった。
それでもこつこつと読み進め、なんとか読み切ることができたのは、そうした枝葉の知識を取り去ったあとに残る小説としての物語自体がとても魅力的だから。うん、話としてはおもしろい。でも読むのはとても大変。異常に大変。そんな作品。
この小説は三つの時間軸にそって、違う時代を生きる二組のカップルの出会いから別れまでをスパイラルに描いてゆく。その構造自体がすでにパズルのように入り組んでいて理解するのが難しい――でもそれゆえにおもしろい――のに、そこに前述の膨大な情報がこれでもかと織り込まれているのだから、これはもう正気の沙汰じゃない。これと比べると最近のパワーズはずいぶんと読みやすくなった。
そういや、原書が刊行されたのは1991年なのに、この小説で描かれるITの知識がいまでもそれほど古びていないのにもびっくりだった。
僕がコンピュータ業界で働き始めたのがその前年で、当時はまだウィンドウズ95も存在しないし、僕はいまだインターネットの「イ」の字も知らなかった。ところがこの小説のなかでは――インターネットという言葉こそ出てこないけれど――オンラインでのハッキングや分散コンピューティングやファイルの暗号化の話があたりまえのように語られている。どうにも僕のITの知識は半世紀遅れていたっぽい。やっぱできる人たちは違うんだなぁ……って思ってしまいました。
タイトルの『黄金虫変奏曲』は、物語の中で重要な役割を果たすバッハの『ゴルトベルク変奏曲』に、暗号解読をテーマにしたポーの短篇小説『黄金虫』(ゴールドバグ)を重ねた語呂合わせ。遊び心のあるタイトルなのに、そんなタイトルの意味を理解するにもある程度の基礎教養が要求されてしまうという……。
根気のある人にしかお薦めできない尋常ならざる一冊。
(Jun. 12, 2022)