2022年6月の本

Index

  1. 『黄金虫変奏曲』 リチャード・パワーズ
  2. 『最後の大君』 スコット・フィッツジェラルド

黄金虫変奏曲

リチャード・パワーズ/森慎一郎・若島正・訳/みすず書房

黄金虫変奏曲

 リチャード・パワーズの長編第三作。
 デビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』の翻訳刊行が2000年、その次に出た第五作の『ガラテイア2.2』が2001年で、たぶんその時点でこの作品も翻訳の計画はあったはずなのに、いやー出ない、出ない。
 待ちに待ったり二十年。ようやく刊行されたこの本を読んでみて、これほどまでに翻訳が遅れた理由がよくわかった。
 いやはや、なにこれ? 八百五十ページ上下二段組というボリュームもさることながら、そこに盛り込まれた学術的な情報量がはんぱない。分子遺伝学、暗号論、音楽理論、コンピュータにまつわる実務的知識、百科事典的なトリビア多数、その他諸々。普通に辞書を引いていたんでは、とてもじゃないけれどこの小説は訳せない。よくぞ翻訳してくれました。この翻訳は偉業だわ。
 まぁ、そういった学術的な記述がこの本の全体のどれだけのパーセンテージを締めるかわからないけれど、情けないことに僕にはそうした部分は翻訳してもらってもなおちんぷんかんぷんで、この本の大半は理解の範囲外だった。
 それでもこつこつと読み進め、なんとか読み切ることができたのは、そうした枝葉の知識を取り去ったあとに残る小説としての物語自体がとても魅力的だから。うん、話としてはおもしろい。でも読むのはとても大変。異常に大変。そんな作品。
 この小説は三つの時間軸にそって、違う時代を生きる二組のカップルの出会いから別れまでをスパイラルに描いてゆく。その構造自体がすでにパズルのように入り組んでいて理解するのが難しい――でもそれゆえにおもしろい――のに、そこに前述の膨大な情報がこれでもかと織り込まれているのだから、これはもう正気の沙汰じゃない。これと比べると最近のパワーズはずいぶんと読みやすくなった。
 そういや、原書が刊行されたのは1991年なのに、この小説で描かれるITの知識がいまでもそれほど古びていないのにもびっくりだった。
 僕がコンピュータ業界で働き始めたのがその前年で、当時はまだウィンドウズ95も存在しないし、僕はいまだインターネットの「イ」の字も知らなかった。ところがこの小説のなかでは――インターネットという言葉こそ出てこないけれど――オンラインでのハッキングや分散コンピューティングやファイルの暗号化の話があたりまえのように語られている。どうにも僕のITの知識は半世紀遅れていたっぽい。やっぱできる人たちは違うんだなぁ……って思ってしまいました。
 タイトルの『黄金虫変奏曲』は、物語の中で重要な役割を果たすバッハの『ゴルトベルク変奏曲』に、暗号解読をテーマにしたポーの短篇小説『黄金虫』(ゴールドバグ)を重ねた語呂合わせ。遊び心のあるタイトルなのに、そんなタイトルの意味を理解するにもある程度の基礎教養が要求されてしまうという……。
 根気のある人にしかお薦めできない尋常ならざる一冊。
(Jun. 12, 2022)

最後の大君

スコット・フィッツジェラルド/村上春樹・訳/中央公論新社

最後の大君 (単行本)

 F・スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作が村上春樹氏による新訳で登場。
 この作品を春樹氏が訳してきたのはけっこう意外だった。フィッツジェラルドの長編五作のうちでは『グレート・ギャツビー』についで翻訳された回数の多い作品だし、そもそも二年前に上岡伸雄氏による新訳版が出たばかりだ。春樹氏のいう「翻訳の鮮度」は、フィッツジェラルド作品でもっとも高い。
 それをわざわざ新しく訳しなおすというのは、つまりよほど春樹氏がこの作品に思い入れがあったか、上岡氏の翻訳に不満があったかのどちらかだろう。後者だったら上岡氏に喧嘩を売っているようなものじゃなかろうか。
 最近、創元文庫から『長い別れ』の新訳版が出たりもしたし、もしかして専属の英米文学翻訳家と村上春樹とのあいだには妙な確執があったりやしないかって下衆の勘繰りをしたくなる。
 まぁ、著作権が切れてライセンスがフリーになった人気作品については、どこの出版社も自分のところのカタログに入れておきたいという思惑があって、こういう事態になっているのかもしれないけど。
 この新訳に関していちばん理想的な解釈は、春樹氏がフィッツジェラルドの長編五作を全部みすからの手で訳すつもりでいて、たまたまこれがこのタイミングでその二冊目に選ばれたのではということ。だったらいいなぁ――と素直に思えない。
 なぜって、『美しく呪われたもの』を近い将来に再読するのはいささか気が進まないから。『楽園のこちら側』――2016年に翻訳が出たけれど、翻訳家と出版社になじみがなかったから、どうしようかと思っていたら、知らないうちに絶版になっていた――を訳してくれたら、それはとても嬉しいですけどねぇ……。
 さて。ということで、前回角川文庫版でこの作品を読んでから十一年ぶりの再読。
 この作品が『最後の大君』というタイトルで翻訳されるのは、僕の知っている限りでは、集英社が昭和五十四年に刊行した世界文学全集にギャツビーとともに収録されて以来のこと(小石川家の蔵書にある)。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『ロング・グッドバイ』はカタカナ表記を選んだのに、ハリウッドの映画界を舞台にしたカタカナ表記が似合いそうなこの作品は日本語なのかと、やや違和感をおぼえないでもない。
 内容については、やはりみごとに忘れていた。過去に最低でも三回は読んでいるはずなのに、なぜにここまで忘れるかなぁ……。やっぱ未完だということで、身を入れて読んでいない証拠でしょうか? いけません。
 今回読んで意外に思ったのは、スターとの初めてのデートのあとでキャスリーンが「私はどうやらセックスに飢えていたみたいね」という大胆な発言をしていること(p.179ページ)。あと、断筆のあとのあらすじが「概要」としてついていること。どちらも旧訳の時点であったんでしょうか? 本当にぜんぜんおぼえていない。
 二年前に出た上岡氏の新訳版には『クレイジー・サンデー』ほかの新訳短編も併録されているそうなので、そちらもいずれ買って読まないとなぁ……とか思っているうちに絶版になるパターンだな、これ。気をつけよう。
(Jun. 26, 2022)