脱力系女性ボーカルによるアカペラの 『ケ・セラ・セラ』 が流れる中、主人公の妹ポーリーン── 『未来は今』 の清楚な役と随分と雰囲気が違うジェニファー・ジェイソン・リー──が庭を散歩しているオープニング・シーケンスがとてもいい。女性ならではの官能性が滲み出すような、くすんだ映像に魅せられる。僕みたいなタイプはこの時点でもうこの映画を無条件に受け入れずにはいられない。
一般的にはメグ・ライアンが初めてヌードを披露して、大胆な濡れ場を演じたのが一番の話題という感じだったけれど、その辺に関しては、作品の製作に関わったニコール・キッドマンの 『アイズ・ワイド・シャット』 に似ている。確かに大胆なシーンはあるけれど、それはあくまで演出上の必要であって、あまり重要ではないと僕は思う。正直なところ、この映画でのメグ・ライアンは女性としては盛りを過ぎてしまっている感が強くて、彼女のヌードが見られて嬉しいという気分にはなれなかった。
それよりもやはりこの映画の見どころはジェーン・カンピオンによる演出だ。
『ピアノ・レッスン』 『エンジェル・アット・マイ・テーブル』 、そしてこの作品と、ジェーン・カンピオンという人は、女性を女性ならではの感覚で赤裸々に描いてみせる。同性であるがゆえに、女性を描くタッチにあまり美化したところが見られない。そのせいで──メグ・ライアンには気の毒なことに──、 『電話で抱きしめて』 のわずか3年後の作品だというのに、この映画の彼女は、あれから十歳も年をとってしまったかのように見える。ライアンとリーが演じる姉妹のだらしのない生活ぶりにエロチックな気分を煽られる男性はいるかもしれないけれど、理想の女性像を見出す人は少ないと思う。
そんな等身大の中年女性像をあからさまに描けるのも、監督が女性ならではだろう。僕がこの人に惹かれる理由のひとつは、そうした女性であるという自分の立ち位置に、まっこうから向かいあって映画を作っているのがわかるからだ。
この人の魅力はそのユーモアセンスにもある。陰鬱なこの作品においても、彼女はやはりその優れた感性を発揮して見せてくれている。
例えばマロイ(マーク・ラファロ)にデートに誘われたフラニー(メグ・ライアン)が、ポーリーンにドレスを借りるくだり。そのあまり趣味のよくない選択には苦笑を禁じえない。男性だったらばおそらくあの演出はできないだろう。
そしてさらに作品中、最大の悲劇のあとに登場するネズミのオモチャ。あそこであれを登場させる演出は、殺伐としたこの物語の中で非常にインパクトがあった。優しさと残酷さが同居する、なんとも言えない味を生み出している。
この映画のもうひとつの見所は、カンピオンの描くニューヨークの風景にある。今までに見たニ作の舞台は自然あふれる土地だったけれど、今度の舞台は大都会ニューヨーク。ニュージーランド人ジェーン・カンピオンの手にかかると、その街の猥雑な風景にも独特のセクシャリティが滲んでくるような気がする。
(Aug 07, 2005)