姑獲鳥の夏
実相寺昭雄監督/堤真一、永瀬正敏、原田知世/2005年/日本/DVD
京極夏彦のミステリの特徴のひとつは、常に活字メディアだからこそ成立しえるトリックを用いていることにある。映像をともなわないからこそトリックとして成立しえる。デビュー作であるこの 『姑獲鳥の夏』 から最新作の 『邪魅の雫』 にいたるまで、京極夏彦はあきらかに意識的にそういうトリックを選んでミステリを書いている。そこでは映像がない、つまり「見えない」ことがミステリとして成立する必須条件となっている。それゆえに映画化にあたっては当然のごとく、「映画化不可能と言われた」という枕詞がつくことになる。
この場合の「映像化不可能」という言葉は、 『ロード・オブ・ザ・リング』 のように、イメージがあまりに現実離れしていてどう映像化していいかわからないとか、映像化するには莫大な費用がかかるから無理とかいう意味ではない。そういう意味では映像にしてしまうことは、おそらく容易い──まあ 『魍魎の匣』 だけはかなり難しい気がするけれど、その他の作品については映像技術的な意味での難易度はないと思う。どれも昭和初期を舞台にしているから、セットにはそれなりに費用がかかったとはしても、撮影自体にはなんら難しい点はないだろう。
それよりも問題は、どの作品も原作をそのまま映像として描いてしまっては、ミステリ映画として成り立たない点にある。映画化できないのではない。「ミステリ映画」にはならないのである。なにせ「見えない」ことでミステリとして成立している作品を、映像で見せてしまうわけだから、そんなことをしたらば京極堂の台詞同様、「世の中には不思議なことなどひとつもないのだよ」ということになってしまう。不思議なことのひとつもないミステリなんて、興ざめ甚だしい。そもそも「不思議なことのないミステリ」という言葉自体が自家撞着を起こしてしまっている。
京極夏彦の小説をきちんと「ミステリ」として映画化しようと思うならば、原作をそのまま再現するのではなく、それをミステリと成らしめている要素をいったん取り除き、それを小説とは違う文体のもとに映像として語り直してやらなければならないのだと僕は思う。つまり映像として独自にトリックを再現するための、小説とは別の方法論を考え出さないといけないことになる。それはミステリ作家でもない人間に対して、新たなトリックを考え出せと言っているに等しい。いかに難しいことかは、素人がちょっと考えてみただけでもわかろうってものだ。
そんな難事業に挑んで見せたこの作品。さてどんなかというと……。
うーん、出来はやはりいまいちだった。
繰り返しになるけれど、京極ミステリを「ミステリ」映画として成立させるには、原作の表現から離れた、映像表現としての別次元の技巧が必要になる。活字であるからこそ成立しているトリックをそのまま映像化してしまったらば、謎が謎として成り立たず、当然の帰結としてミステリ映画としては破綻する。
ネタばれ失礼で具体的に言うならば、まずは「二十ヶ月も妊娠していた女性が、夫の死体を出産した」というあり得ない出来事を、きちんとそういうことがあったように描いてみせなければならない。なぜならばそれがこの作品のミステリ(=謎)としてのクライマックスだからだ。そんな突拍子もない謎を小説同様にきちんと提示しようとした場合、ある種 『Xファイル』 のような演出力が求められることになる。
しかしこの映画にはそうした非現実的で過剰な演出は見られない(スポットライトの多用という別次元の非現実的演出を別とすればだけれど)。小説が「関口巽にはそう見えた」ことで成り立っている場面を、実相寺監督は見せないか、もしくは万人に見えるままに見せるか、そのどちらかの形でのみ映してしまっている。だから牧郎氏の死体はどう贔屓目に見たって京子さんから生まれたようには見えない。単に最初からそこに転がっていたようにしか見えない。そしてそういう風に見えてしまったらば、このミステリはもうおしまいなんじゃないだろうか。だってそれが現実なのだから。
京極ミステリの世界においては、最終的に不思議なことはなにも起こらない。最後にはきちんとすべて京極堂によって説明される。けれどそれでいて、その京極堂の説明=憑き物落としがあるまでは、不思議なことがあるようにしか思えない。そこが肝心だ。それまで超常現象的な出来事だと思われていた事件が、実はありふれたことの積み重ねだったことが、最後に京極堂によって解き明かされる。不可解な謎が、ものの見事に解けてしまう解放感こそ、京極堂による憑き物落としの核となるものであり、京極ミステリ──いやミステリ全般だろうか──の最大の魅力だろう。だから謎はきちんと不可解なものとして輪郭くっきり成り立っていなければならないし、それがクライマックスでは一点の曇りもなく解き明かされなければならない。さもなければ観客の憑き物は落ちない。
その意味でやはりこの映画は失敗作だと思う。明かされるべき謎は謎としての焦点を欠き、謎解きもまるで説明不足なのだから。
これまたネタばれ気味な話になってしまうけれど、原作においてミステリとして一番インパクトがあるのは、死体の出産という扇情的な事件よりもむしろ、そのあとであきらかになる、牧郎氏の死因が刺殺ではなく撲殺だったという点にあると思う。牧郎氏は刺されたあとに殴り殺されている。誰に、なぜ?
その説明となるのが、久遠寺家が代々おしょぼ憑きの家系だったという事実だ。ところがこの映画ではその辺の説明がまるでされていない。そもそも牧郎氏が頭を殴られていたという事実が語られているかもあやしい。あったのかもしれないけれど、僕の記憶にはないから、あったとしてもほんの一瞬だろう。それでいて謎解きの場面においては、おしょぼ憑きに関する言及や、石で殴ったという説明がきちんとある。謎はないのに謎解きだけあるというこの不思議。撲殺という謎をきちんと提示しないでおいて、その説明となる部分だけを見せているのでは、原作をきちんと把握していないと思われても仕方ない。その一点をとっただけでも、この映画がミステリとして成功しているとは言えないのはあきらかだ。
ということで、とりあえずミステリ映画としてみた場合、圧倒的に不満の方が多い作品となってしまっている。
まあミステリではないものと割りきって見るならば、小説の雰囲気はそれなりに捉えているかなと思う。京極堂の本屋や眩暈坂、久遠寺医院らのセットにはとても力が入っているのがわかるし──セットでの撮影のせいか、市川崑の金田一シリーズのような映像としての奥行きが感じられないのは残念なところだけれど──、永瀬正敏の関君(見事な猿顔)や、阿部寛の榎木津はかなりのはまり役だと思った。一人二役の原田知世もそろそろ四十に手が届こうとは思えない若々しさで、あいかわらず魅力的だ──というか、 『時をかける少女』 を高校時代にリアルタイムで見た同世代の人間にしてみると、あの若々しさこそ不思議に思える。
一方で堤真一の京極堂役は、人情味をあまり感じさせない点で、僕の趣味からするといまひとつだった──無愛想な中にほのかな優しさが隠れ見えるところが京極堂の魅力だと思うので。でもあの難しい長台詞をちゃんとおぼえた苦労は買ってあげたい。
あとこれは堤真一の責任ではないけれど、京極堂の衣装が真っ黒でない点、これが非常に不満だった。
陰陽師としての京極堂の登場シーンは、小説において最大の見せ場のひとつだ。初の映像化ということでとても楽しみにしていたその場面で、いきなり原作のイメージとは違った、真っ黒でない京極堂が登場したときには、やはりとても失望させられた。
鴉のように黒一色の衣装に、鼻緒だけ赤い。漆黒の闇をまとった陰陽師、それでこそ京極堂だろう。世の中にはキャラと結びついた色のイメージというものがある。シャアのザクが赤くないといけないように、京極堂の衣装は黒くないといけない。あの紫(臙脂?)色は暗い場面で映えるようにという演出効果を狙った配色なのかもしれないけれど、だとしたら映像という枠組を与えられたせいで、キャラクターの大事な属性が損なわれてしまったことになる。そうなるとやはり映画化は失敗だったと思わずにはいられない。
ということで、残念ながら圧倒的に不満のほうが多い作品だった。ただとりあえず、現在の日本映画界に望める最良の俳優陣を集め、京極ミステリの独特の雰囲気を再現しようとした点には好意が持てる。大好きな小説の映画化だったので、ついつい長くなってしまったけれど、まあそういう作品だった。
(Oct 18, 2006)