東京の空
エレファントカシマシ / CD / 1994
エレカシのエピック・ソニー在籍時の最後の一枚。
ひとことでエピック期とはいっても、このアルバムはそれまでの作品とはかなり毛色が違う。前作『奴隷天国』でバンドのリセットを試みたにもかかわらず、世間的に思うような評価が受けられなかったことが、宮本にさらなる奮起を促したのだろうと思う。
こうなりゃもう俺ひとりでやるしかないだろうよ──。
そう思ったかどうかはいざ知らず。少なくてもこのアルバムの宮本が創作に向かう姿勢はそれまでとはあきらかに違う。
そもそもジャケットからして違う。それまでは(唯一写真を使わなかった『生活』を別にして)つねにメンバー四人そろって表紙を飾っていたのに、ここでは初めて宮本がひとりでポーズを決めている。しかもいきなりの長髪をなびかせて。
その後ファンになった人には宮本の長髪はあたりまえかもしれないけれど、これを見たときには、そりゃもう驚いたもんなんです。なんたって男、男と、男を連発していた人が、いきなり女性並みのロンゲになっているわけだから。なにがあったかと思った。
このアルバムでの変化はそんな外見に留まらず、さらに大事な音楽面にも及ぶ。
オープニングを飾る『この世は最高!』は、楽曲こそ『奴隷天国』の延長線上だけれども、サビに宮本のボーカルをオーバーダビングしたコーラスがついていたり、ピュンピュン変な音が入っていたりする。タイトル・トラックにしてエレカシ史上最長の大曲『東京の空』ではジャズ界の重鎮、近藤等則氏のトランペットが大々的にフィーチャーされている。『誰かのささやき』ではアウトロがフェードアウトしているし、『明日があるのさ』には珍妙な語りパートがあり、とりを飾る『暮れゆく夕べの空』では、そこまでにつちかったレコーディング技術すべての集大成みたいな凝ったアレンジが施されている。
とまぁ、どれもほかのバンドにとっては特別なことではないんだろうけれど、エレカシにとってはあきらかな新機軸ばかりだ。それまでの「ロックンロール・バンドは基本的に一発録りでオッケー」という姿勢から、そうではなく細部まで気を配って少しでもいい音楽を作って届けようという姿勢へシフトしているのがわかる。
記憶がさだかではないけれど、宮本が立ったままギターを弾くようになったのも、たしかこのアルバムの前後だったと思う(それにもびっくりした)。
エレカシがブレークを果たすのはレーベルを移籍して次に出す『ココロに花を』だけれど、そこにいたるまでの実質的な変化は、エピック最後のこのアルバムの時点ですでに始まっていたわけだ。しかも宮本浩次のセルフ・プロデュースで。
とはいえ、その変化が僕のようなリスナーにとって喜ばしいものだったかといえば、残念ながら答えはノーだった。
いや、音楽的に手の込んだものを届けようという姿勢は否定しない。よりよいものと作ろうという意欲がなかったら、継続的にいい作品を生み出すのは不可能だろう。そしてこのアルバムが音響的にそれまでの作品とは一線を画したのは事実だと思う。
ただ、その副作用なのかどうか、このアルバムの楽曲はアレンジがどうとか以前に、曲そのものの質がそれまでとは違ってしまっている。
単純なところで、冒頭から三曲連続でマイナーコードの曲がつづく。これだけでもう以前のエレカシの作品とはずいぶんと印象が違う。
全体として見ればマイナーコードの曲はその三曲と、最後の『暮れゆく夕べの空』だけだけれど、『東京の空』がすごく長い曲なこともあって、最初の三曲だけで20分を超えてしまっている。昔のレコードでいえば、A面はずっとマイナー、でもって締めくくりもマイナーって、そういうアルバムなわけです。
それまでのエレカシの、ダウナーなことを歌いつつも旋律は明るいって作風を愛していた者にとっては、このアルバムのマイナー調にはいまいち同調しにくいものがあった。
で、メロディだけの問題で済めばまだしも、このアルバムの場合、歌詞もなんだかおかしなことになっている。
だって『真冬のロマンチック』とか、『極楽大将生活賛歌』とか、『男餓鬼道空っ風』とか、なにいいたいんだかよくわからなくありません?
少なくてもセカンドから前作までの宮本の歌詞には、共感することこそ多々あれ、首を傾げるようなところはほとんどなかった。例外は反語満載のファーストだけれど(「金がともだちさ」とか「目にさわる奴はとりあえず埋めよう」とか、あれが反語ではなくて本気だといわれるとすごく困る)、それにしたって言いたいところはある程度わかった。
でもこのアルバムは違う。少なくても僕にはなぜ『真冬のロマンチック』で「部屋はぽかぽかストーブ」とか歌っていた人が、最終的に「こうなりゃみんなで昇天さ~」というサビのフレーズにたどり着くのか、さっぱりわからない。
ちょっと前にRADWIMPSの野田くんがツイッターで「自分は声の響きさえよければ、歌詞でなにが歌われているかなんて、ほとんど気にしない」みたいなことを書いていたけれど、僕は違う。やはり何度も繰り返し繰り返し聴きたくなる曲、聴かずにはいられなくなる歌は、その言葉に心から共感できる曲ばかりだ(少なくても日本語の曲はそう)。
なので正直なところ、僕はそれらの意味不明な曲よりは、まだメランコリックな『もしも願いが叶うなら』のほうが好きだ。『東京の空』のほうが好きだ。『星の降るような夜に』のような、昔ながらのいい曲もあるけれど、この曲の場合、昔ながらなところが仇になって、ここでは浮いてしまった感じがするのが痛い。
もうひとつ失礼を覚悟でいわせてもらうと、『明日があるのさ』、この曲は当時エレカシ史上初の駄作だと思った。歌詞はバカみたいにタイトルを繰り返すばかりだし、メロディもとりたててよくないし。それまでエレカシって駄作と思わせる曲がひとつもなかったのに、この曲はあきらかに駄作だと思った。初めてこれを聴いたときのがっかり感ときた日には……。その後を見ても、エレカシでこれほどひどいと思った曲は、あとひとつしかない(それがなにかはあえて書きません)。
まぁ、その後はこの手の曲がどんどん増えたので、いまとなるととりわけこの曲がひどいとも思わないんだけれど、初めてのころはほんとショックだったと。そういう話。
とにかく、結局はそうした歌詞の面での変化がいちばんのダメージだった。このアルバムからは僕が前作まで感じていた百パーセントに近い共感が得られなくなってしまっている。それは宮本がそれまでの私小説的な世界観から、より開かれた世界へと飛び立つために必要な変化だったのかもしれない。そして結果としてその変化こそが彼らにその後の成功をもたらすことになったのかもしれない。それでも宮本がここで変わってしまったことは、僕にとってはとてもさびしいことだった。
このアルバムを聴くと、僕はサザンの『綺麗』を思い出す。『NUDE MAN』までのサザンのアルバムには、どんなフィクショナルな楽曲であっても、桑田佳祐という人の個人の感情が透けて見えるところがあった。そしてそこが僕には大きな魅力だった。
ところが『綺麗』ではそれがキレイさっぱりなくなって、全部が全部フィクションという印象になる。それこそ『旅男六人衆』のようなツアーの思い出を歌った歌でさえ例外でなく。
あたかもサウンド面での充実と等価交換したように、アーティスト個人の内面が見えにくくなったという点において、この『東京の空』は『綺麗』に似かよっていると僕は思う。もしかして優れたロック・アーティストは誰もが一度はそういう道を通るものなのかもしれない。
ということで、アルバム自体がアーティストとしての新境地を開いた意欲作なのはわかるんだけれど、個人的にはいまいち愛着の湧かない一枚。それが僕にとってのこの『東京の空』だった。
そして次からいよいよ問題のポニーキャニオン時代が始まる……。
(Feb 12, 2017)