good morning
エレファントカシマシ / CD / 2000
東芝EMI移籍第一弾にして、エレカシとのつきあいは一生モンだと確信させてくれた素晴らしき一枚。
考えてみればなぜこの時期にふたたびエレカシがレコード会社を移籍することになったのか僕は知らない。ポニーキャニオンでかつてない好セールスを記録したにもかかわらず、わずかアルバム三枚のみでほかへ移ったのはなぜ? レーベルのカラーに馴染めなかったから? 偉い人と喧嘩をしたとか? 会社名がかわいすぎて自分たちにあわないと思ったとか?
いずれにせよ、このタイミングでエレカシはまたレコード会社を移籍した。そして、それとともに唐突にスタンスを改めた。よもやポニーキャニオン三部作のあとにこんな怪作が登場してこようとは思ってもみなかった。
いや、正確にいえば、このアルバムが極端な性格なものになるんだろうってことは、先行シングルの『ガストロンジャー』を聴いた時点である程度予想できた。
まじで予想外だったのはその前の年の暮れにリリースされた『ガストロンジャー』のほう。あのシングルを聴いたときの驚きは忘れない。リリース前からその意味不明なタイトルにあやしいものは感じてはいたけれど、いざ耳にしたその楽曲はまったく想定外のものだった。いまから思えば、その驚きには初めて『浮世の夢』を聴いたときに近いものがあったかもしれない。いや、なまじこの時期のエレカシに期待するものが低かったので、なおさら衝撃的だった。
え、なにこれ?
だってメロディーはどこ? その過激な歌詞はなに?
前作で「君はネコで俺は嘘つき」と歌っていた人がいったいどうした?
――と、恥ずかしながら最初に聴いた瞬間はほんとうにとまどったもんでしたが。
つづけて即座に二回目に聴きかえしてみたところで、ぞくぞくと嬉しさがこみあげてきた。なにこれ最高じゃん!
爆裂的なダンス・ビートに乗せて日本の現状を嘆くその過激なロックナンバーからは、エピック時代ともポニーキャニオン時代とも違う、まったく新しいエレカシ像が立ち現れていた。カップリングの『soul rescue』も最高だし、エレカシ史上最強のシングルはいまだにこれだと思う。
間髪入れずにリリースされた次のシングル『so many people』も、メロディーこそポニーキャニオンの流れをくむ明るさながら、その苦み走った歌詞と疾走感のあるビートには確実にそれ以降を感じさせるものがあった。この曲のカップリングの『sweet memory』もそう。楽曲の雰囲気はまるっきりポニーキャニオン時代のままだけれど(タイトルで松田聖子のカバーかと思った)、ビート感が完全に違う。こんなに爽快に突っ走っているエレカシはこれまでに聞いたことがない。
とにかくこの二枚の先行シングルのエレカシはあきらかにそれまでとは違った。なにか大きな変化が起きていることを感じさせた。それを受けての新譜だ。期待するなってのが無理な話だった。期待値でいえば過去最高。で、エレカシはみごとその期待にこたえてくれた。満を持してリリースされたアルバムは本当に素晴らしかった。
僕は基本的に洋楽リスナーなので、日本の音楽に対しては音響的な面で不満を抱えることが多い。日本のロックを聴いていて、これこそいまの時代の最先端と思うようなロックと出会ったことって一度としてないし──まぁ、僕の視野が狭いせいかもしれないけど──、日本のロックが洋楽の過去のフォーマットを踏襲しているだけならば、ではなぜ洋楽ではなく邦楽を聴くべきかって話になる。
僕にとってその答えは日本語でしか味わえない感動があるからだ。少なくてもその音楽のみならず言葉のうえでも共感できる母国語のポップ・ミュージックが与えてくれる感動には、外国の音楽では絶対に味わえないものがある。もしも洋楽しか聴かない人がこの喜びを知らないのだとしたら、それはとてももったいないと思う。
エピック時代のエレカシの曲には、ロックの標準的なフォーマットを踏襲しながらも、宮本独特のリズム認識に私小説的な歌詞が乗っかったところに、英語の曲では経験したことのない唯一無二の感動があった。
その点で、より普通のラブソングをより平均的なロックサウンドで鳴らしたポニーキャニオン時代のエレカシには、残念ながらそういう特別な感動を僕は感じない。「歌」としてはよくても、ダンス・ミュージックとしてのビート感が薄くて、踊れない曲も多いし。ロックは心と体の両方へ訴えてくるからこそ特別だと思っている僕にとっては、そこもまたもの足りなかった。
ところが、そんなポニーキャニオン三部作のあとで届けられたこの『good morning』には、音響面で僕の邦楽への不満を吹っ飛ばすようなアグレッシヴさがあった。全面的にコンピュータを使って作ったガッツンガッツンとアタック音の強いサウンドの過激さ、ビートの先鋭さには、これでこそロックと思わせる説得力があった。この音ならば歌詞抜きでもいいって。そんなふうにサウンドのみで盛りあがれる日本のロックってとても貴重だった。
まぁ、機械の使い方がこなれないから音響的に完璧というにはほど遠いし、勢いあまってところどころに耳障りなSEが入っているのもちょっとなんだけれど、それでもこのアルバムのサウンドは僕には痛快きわまりなかった。ちょっとへたっぴな感触があるのも、いつものロック・サウンドのインダストリアル的展開と考えれば、それはそれでとてもエレカシらしい。
あと、単にサウンドがラウドなだけではなく、とにかく全曲ちゃんと踊れる。ここも大事。唯一スローな『武蔵野』でさえ、その雄大なグルーヴ感でもってしっかり身体をゆさぶってくる。エレカシ史上でも、もっとも踊れる一枚だと思う。
歌詞の面でありきたりなラブソングが皆無なのもいい。『ガストロンジャー』で爆発させた現代の日本社会に対する鬱憤がほぼ全編にわたって展開されている。以前のような私小説的な風景ではなく、もっと抽象的な世界観ではあるけれど、そこに並んだ言葉には不思議としっかり共感を呼ぶものがある。
このアルバムが素晴らしいのは、基本的にシリアスなことを歌いながらも、ところどころにユーモラスな感触があること。唐突にクリスティーン(誰?)なんて女の子の名前が出てくる傑作タイトル曲に顕著だけれど、コワモテなのにどことなく可愛いところのある宮本浩次という人の魅力が全力で伝わる内容になっていると思う。そんな内容を反映してか、ジャケットのアートワークからして珍妙だ。
とにかくハードなダンス・ビートに乗せたシビアな歌詞とそこはかとないユーモア。これがロックでなかったらなにがロックだっていうんだろう?
……ってくらいに個人的にはたいそう盛りあがった作品だったのですが。
このアルバムを機にエレカシはまた売れない時代に突入してしまう。
これにはマジでムカついた。エレカシにではなく、こんなに素晴らしい作品を作ったにもかかわらず、それを音楽シーンのムーブメントに結びつけられない日本の音楽メディアに。『ガストロンジャー』だけでも日本のロック史上に燦然と輝く名曲なんだから、それをフィーチャーしたこのアルバムで盛りあがらないでどうするんだよ、いったい日本の音楽評論家ってなんなんだよと思った。
『good morning』は完璧ではない、欠点のある作品かもしれない。それでも僕はこれはそんな欠点を補ってあまりある魅力を持った、ひとりでも多くのリスナーの耳に届けられてしかるべき素晴らしい作品だったと思う。だからこそメディアの力でもって、この作品のいびつな世界観をもっと広めて欲しい。そう思わずにはいられなかった。
僕が高校時代からずっと読んできたロッキングオンを買うのをやめたのがこの年の終わりだったのは、もしかしたらその辺で感じた音楽メディアへの不信感も大きかったのかもしれない(よく覚えていない)。
そういや、あまりに気に入ったもんで、僕ん家ではこのアルバム、二枚も買っているんですよ。一枚は僕がCDウォークマンに入れて持ち歩くぶん(iPod以前の話)。もう一枚は奥さんがうちで聴くぶん。当時はいまみたいに初回限定盤と通常盤と二種類もなかったから、両方ともまったく同じもの。同じもの二枚買っても惜しくないぜって。それくらい気に入ったアルバムだった。
とにかく僕個人はこれを聴いたことで、この先もう二度とエレカシからは離れられないなと思った。
だってあのポニーキャニオン三部作のあとにこんなアルバムを作っちゃうような人たちだよ? この先どんな失敗作をリリースすることがあろうとも、いずれはまたとんでもない名盤を作ってくれるに違いない。
いまだ僕はそう信じて疑わない。
(Mar 12, 2017)