ブルース・スプリングスティーン
ゴースト・オブ・トム・ジョード・ツアー/1997年1月31日/東京国際フォーラム・ホールA
『ボーン・イン・ザ・USA』 の時のツアーから12年ぶり、その後のアムネスティ・インターナショナルでの来日からは9年ぶりとなるスプリングスティーンのコンサート。ただし今回の来日は彼一人きりのアコースティック・ライブだった。
会場となった東京国際フォーラムは先月オープンしたばかりの真新しい施設。狭い敷地内に大小四つのホールと飛行船のような天蓋を持った巨大な建築物が密集した、ガラス張りの近未来的なイヴェント空間だ。新都庁ビルといい、ここといい、このところの東京都の建築物にはやたらと金がかかっている。経済力だけが取柄の日本の首都としての見栄がバブルで膨れ上がった結果なのだろうけれど、すっかり懐具合のさみしい昨今、普通ならばけちの一つもつけたくなるところだ。でもここに関しては、そうした無駄遣いに腹が立つよりまず先に、その設計の新奇さに目を奪われた。地下なんてまるで 『スターウォーズ』 のセットに入り込んだみたいで、その奇抜さに思わず笑ってしまった。
会場のホールAは、客席が上へ上へと広がった新宿厚生年金会館タイプの、ロックよりはクラシックのコンサートに向いていそうなホールだった。A席のチケットはその一番上のフロアで、席に辿り着くまでにやたらと階をあがらなくてはならない。普通のビルの五、六階にあたるんじゃないだろうか。自分がいったいホールのどのあたりにいるのか、よくわからなくて、席を見つけるのが大変だった。今回の公演ではスプリングスティーンの意向により、コンサート開始後の入場は、曲と曲のあいだでないと認められないというので、開演時間ぎりぎりにやってきた僕の妻も、席を見つけるのに苦労して走ってしまったと、汗をかいていた。
でも、そんな彼女の汗かきも無駄な努力に終わり、ようやくライブが始まったのは開始予定時刻を二十分以上も過ぎてからだった。一人きりのステージだから、セッティングにそう時間がかかるとは思えない。多分、新しい会場のため、観客の入場がスムーズに行かなかったということなのだろう。もしくは曲間の入場制限のために、遅れて来た客に対して配慮したのかもしれない。いずれにせよ、ようやく場内の照明が落ちたのは七時半近くになってからだった。
ステージ上にいるのはスプリングスティーンたった一人だから、照明はほとんどスポットライトのみという感じだった。暗いステージの中央一個所に集中したあかりの中に、スプリングスティーンが歓声を浴びながら登場する。
オープニング・ナンバーは当然のごとく 『ゴースト・オブ・トム・ジョード』 。開演前に「アーティストの意向により、本日のコンサートは座ったままご覧ください」という場内放送が流れたこともあり、曲の始まりと終わりには大きな拍手と歓声が巻き起こるものの、それ以外は非常に静か。誰もがみな、じっとして黙ったまま、スプリングスティーンの歌に一心に耳を傾けている。まるでクラシック・コンサートのような雰囲気だった。
近頃聞き慣れていたオープニング・ナンバーに続いて、 『アトランティック・シティ』 が始まる。 『ネブラスカ』 からスプリングスティーンを聴きはじめた僕にとっては、特に思い入れが深いナンバーだ。この曲をこうしてレコード同様のアコースティック・スタイルで聞ける日がくるとは思ってもいなかったので、とても嬉しかった。
ただしこの曲、ギターのカッティングや歌詞の節回しが若干変わっていて、ちょっと違和感があった。これまでに聴いたことのある彼のライブ音源でもそうだったけれど、スプリングスティーンは弾き語りとなると、歌詞の内容をより強く訴えるためか、ロックン・ロール的な解釈を極力押さえたリズムと節回しを使う。おかげであまり乗りがよくなかった。僕としては、アコースティック・ギター一本でもこれほどドライブ感が出せるのだという演奏を期待していたから、その点はちょっともの足りなかった。わざわざ弾き語りというスタイルを取る理由を考えると、ずれた見方なのかもしれないけれど。
この日のコンサートは、基本的にはアルバム 『ゴースト・オブ・トム・ジョード』 の曲を中心とした選曲だった。それにアコースティック・ヴァージョンにアレンジし直された往年の曲が絡む。特にそのアレンジが強烈だったのが 『闇に吠える街』 からのナンバーだった。 『アダム・レイズ・ケイン』 、 『闇に吠える街』 、 『プロミスド・ランド』 といったナンバーは、新しいアコースティック・アレンジによって、まるで別の曲のようになっていた。歌詞を知らなければそれらの曲だとわからないような変わりよう。 『アダム~』 などは原曲にあまり愛着がなかったせいで、曲の前にスプリングスティーンがなかなか流暢な日本語で「これは父と子の歌です」と紹介してくれたのと、今回のツアーでこの曲が演奏されているという情報を知らないでいたら、それとわからなかったんじゃないかと思う。あのシンセのリフをスライド・ギターで表現してみせた 『ボーン・イン・ザ・USA』 も同様だ。実際、スプリングスティーンのファンでない妻は、その曲が 『ボーン・イン・ザ・USA』 だとは思わなかったと言っていた。
でも、そうした意表を突いたアレンジを施された曲こそが、このライブにおいてもっともダイナミックなナンバーだった。観客にその歌の世界が充分理解されているという安心感があるせいか、それらの曲については、歌詞を伝えることよりも、その新しいアレンジで楽しませてやろうという遊び心のようなものがあったのではないかと思う。
デイブ・マーシュの 『明日なき暴走』 では、スプリングスティーンという人は、ライブではレコードのアレンジをそのままには再現しない人だと紹介されている。それを考えると、こうしたアコースティック・スタイルのライブで、既に完成された曲のイメージを打ち壊そうとする彼の姿勢はいかにも彼らしい。それに対してニューアルバムからの曲は、まあそのスタイルが今回のライブそのままのものであったということもあるのだろうけれど、アルバムの静かな雰囲気をそのままに再現するような内容となっていた。だからその分、歌の物語がびんびん伝わってくる。正直言ってこの日のライブで一番よかったのはこれらの新しい楽曲群だった。前もって歌詞をじっくり読んできた甲斐があったというものだ。
人一倍歌を大切にするスプリングスティーンにとって、英語を理解しない日本人の前で歌うことは、かなり難しいことであるはずだ。今回のように、音楽的装飾を極力剥ぎ取ったスタイルであればなおさらだろう。この日のライブでも、自分のトークにはにかみ、笑いを交えて話す彼に対し、客席は沈黙するままというぎこちないシーンがかなりあった。
それでもせめて曲の核となるコンセプトだけはわかって聴いてもらいたいという思いからだろう、長々と英語でしゃべったあとで一言だけ、 「これは男と女のセックスの歌です」 などと日本語をつけ加えて曲の紹介を終えるという彼の誠実さを僕は愛する。その誠実さに答えたくて、僕は必死に彼の言葉に耳をすました。コンサートでこの日ほど必死に英語のヒアリングに励んだことはいまだかつてなかったと思う。まあ、聞き取れたのは断片的な部分でしかなったのだけれど、それでもわからないよりはまし。いくらかならば英語がわかるという自己満足も味わえた。
とにもかくにも、そんなこんなで、当初思っていたよりも、はるかに楽しむことができるライブだった。観に行く前は、もしかしたら眠ってしまうのではないかと、つまらない心配をしていたにもかかわらず、一度も眠くなることなどなかった。Eストリート・バンドとの再来日も期待してやまないけれど、再びこのスタイルで来日することがあったら、それもぜひ観たい、今度はもっと英語力を鍛え、もう一度観てみたいと思う。
(Feb 2, 1997)