『男はつらいよ』もこれで最後。さすがにこれだけ続けて観てくると、そう思っただけで感慨深い気分になってしまう。でもこの作品は単に最後だからというだけで感動を誘うだけの作品ではない。まさにとりを飾るにふさわしい、シリーズ最高峰の一本と呼べる出来映えの作品に仕上がっていると思う。
『男はつらいよ』は渥美清という俳優さんの個性に多くを負っている性格上、007シリーズのように俳優を代えて続けてゆけるシリーズではなかったわけだし、いつかはかならず終わる日が訪れる運命だったことを考えると、最後にこういう優れた作品で幕を閉じられたのは、スタッフや俳優陣のみならず、映画ファンにとっても幸福なことだと思う。四十八作目にしてなお、こういう作品を作り出し得たスタッフの努力には頭が下がる思いがする。ご苦労さまでした。
さて、この作品は公開から十二年が過ぎたいまになって初めて観る僕のような人間にとっては、おやっと思うような始まり方をする。片田舎の小さな駅を二人きりで切り盛りしている駅長夫妻が、新聞を眺めながら、「おやおや、こんな尋ね人の広告が出ているよ」なんて話をしている。その尋ね人というのがわれらが寅さんで、依頼人がさくらなのだった。
寅さんの行方がわからないなんていうのは、さくらたちにとっては日常茶飯事のはずだ。なのにここではそんな寅の安否を気づかって、わざわざ新聞広告を出したりしている。いったいなにがあったんだろうと、観客は不思議に思うことになる。
いや、そう思うのは、いまさらこの映画を初めて観る僕だからであって、劇場でリアルタイムにこの映画を観た人たちは、それを不思議に思ったりしなかったのかもしれない。なぜって、この映画が公開された1995年という年は、日本にとって、『男がつらいよ』が続いていた四半世紀のうちで、もっとも悲劇的な事件が相次いだ年だったからだ。
この年の一月に神戸大震災が、そして三月には地下鉄サリン事件が起っている。映画が公開されたのはそんな年の瀬だ。親戚に行方不明の人がいたりすれば、それがいかなる風来坊であったとしても、心配するなという方が無理な話だろう。なので観客もまた、震災の日々を思い出しながら、寅さんの安否を気づかうことになる。
もちろん寅さんが震災やサリンの被害を受けているわけはない。さくらたちの心配をよそに、彼はのほほんと登場して、呑気にアキアカネなんか捕まえようとしている。
でも、じゃあ寅さんが震災といっさい関係がなかったかというと、そんなことはない。じつは彼は、震災の直後に被災地で大活躍をしていたという話になっているのだった。
さくらたちが寅の心配をしながら、いつものように彼の噂話をしていると、よくあるように本人が姿を現すかわりに、茶の間のテレビに元気な寅さんの姿が映し出される、というのがこの映画の最初の見どころ。放送されていたのは震災直後の被災地の模様をつたえるドキュメンタリー番組。旅の途中で神戸の震災に出くわした寅さんが、現地でボランティアに参加したりしていたらしいことを知って、一同はあきれつつも、ほっと胸をなでおろすことになる。直後に神戸のパン屋さん(漫才師・大助花子の宮川大助さん)が《くるまや》を訪れ、その当時の思い出を語って聞かせるのだった。当然、失恋話のおまけつきで。
この震災にまつわるエピソードでおもしろいのが、テレビに映し出される被災地のドキュメンタリー映像。なんと寅さんが、現実にあった火事の現場や、被災地を表敬訪問した村山首相のまわりをうろちょろしたりしている。どちらもセットなどではなく、実際にあったニュースの映像で、そこにあたかも寅さんがいたかのような編集がなされている。そう、『フォレスト・ガンプ』でロバート・ゼメキスがトム・ハンクスをJFKと共演させてみせたあの手法。あれがそのままここで流用されているのだった。
調べてみたら、やはり『フォレスト・ガンプ』が日本で公開されたのがちょうどこの年の初めだった。かつて『未知との遭遇』がヒットすればUFOを飛ばし、『楢山節考』がパルム・ドールを受賞すれば渥美さんに老婆を背負わせ、『髪結いの亭主』がヒットすれば、マドンナを床屋さんにしてみせた山田組だ。ここでもその映画好きな性分を遺憾なく発揮して、さっそくあの大ヒット映画の技法を流用して見せている。その使いまわしの見事さには、ちょっとばかり感心してしまった。
このシリーズはある時期以降、失われつつある日本の景観を映像として残すこととともに、その年の時事問題を時代背景の一部として物語に取り込むことも積極的に行ってきた。ベルリンの壁が崩壊すれば新聞の一面を見せてそのことを知らしめ、外国人労働者が増えれば、朝日印刷でチョコレート色の肌をした外国人を働かせて見せるというような、なにげない形で。そうした意味では、この作品で震災の話題に触れるのは必然的だった。でも事件の規模を考えると、軽々しくあつかえる話題ではない。いったいどうやって見せようか──。山田監督たちはその答えを『フォレスト・ガンプ』のなかに見いだしたのだろう。そして最新の映像技術でもって、日本一愛された映画のキャラクター、車寅次郎に現実の被災地を訪れさせてみせた。やっていることは二番煎じだけれど、それでいてこれはじつに見事な、それこそ極上の二番煎じだと思う。とても感心した。
そんな話題性豊富な導入部をへて、物語はいよいよ本編に入る。まずは3年ぶりにゴクミ演じる及川泉ちゃんが登場。彼女は前二作での不在をものともせず、これまでとおなじようにノンアポで満男に会いにやってくる。で、つかの間の一家団欒ののちに、いきなり結婚しようかと思っていると言い放つのだった。
彼女にしてみれば、満男は初恋の相手だ。わざわざ会いにきたのだから、「そんなのやめろよ」といって欲しいわけだ。けれどそこは寅さんの甥、満男。激しく動揺しながらも平静を装い、「へえ、そうなんだ。よかったじゃないか」とか言ってしまう。かくしてふたりの仲はそれ以上の進展を見ることなく終わり、泉ちゃんは岡山の医師見習と結婚式をあげることになる。
好きな女の子に好きだと言えず、正反対の態度をとってしまうというのは、男ならば誰でもきっと一度くらいは経験があることだと思う。だけれど二十歳を過ぎてなお、(ファースト・キスの相手を目の前にして)そういう態度をとる満男はどうかと思う。その後、奄美大島で帰りの飛行機代を稼ぐために仕事をするというくだりにしても、彼の行動にはあまり説得力が感じられない(普通のサラリーマンはそれくらいの金は持っている)。その辺のリアリティのなさは、この最後の作品でも変わらぬ弱点だと思う。まあ、今回は全体的な出来が素晴らしいので、その辺の不満はほどほどにしておきたい。
なにはともあれ、泉がそのまま結婚してしまうはずがない。彼女のことが諦めきれない満男は、結婚式当日にレンタカーを駆って岡山へと向かい、花嫁行列の邪魔をして、結婚式をぶち壊してしまう。そして自らの醜態を恥じて、ふらふらと風の向くままに奄美大島へと足を向ける。南国のその島で偶然満男と出会って、お節介を焼くことになるのが浅丘ルリ子演じる懐かしのリリーさん。そしてたまたまその時、彼女の家に身を寄せていたのが寅さんなのだった。
最後にリリーが出演した15年前の『寅次郎ハイビスカスの花』を見たとき、僕は彼女と寅さんの関係がプラトニックなのは不自然すぎると書いた。今回の作品でも当初、二人の関係は一見プラトニックなものとして描かれている。満男がその家に泊まることになった夜、寅の布団は満男とおなじ部屋に並べられるし、リリーに好意を寄せている知的障害者の青年も──この人はここ数作のサブレギュラーだった──、満男の質問に憤慨して、二人はそんな関係のはずがないと豪語している。
けれど今回に関しては、本当にそうなのか、ちょっとだけあやしい雰囲気がある。終盤、寅がリリーとともに柴又へと帰ってきて、リリーが寝る時に「一緒の部屋でよかったのにね」とふざけて言うのに、「そうだよな」と寅が答える。このやりとりの自然さには、二人の関係がもしかしたら以前とは違うんじゃないかと思わせるものがある。あくまでちょっとだけなのだけれど、そのほのめかしがとても大きい。大人の関係は、こうじゃなくちゃいけないと思う。
そんな微妙な関係にさらに色を添えるのが、ある晩の、寅に対するリリーの啖呵だ。
満男が泉の結婚の邪魔をしたと聞いて、寅さんは満男が間違っていると言う。いつもの調子で「男は引き際が肝心なんだ」と満男を諭そうとする。
それに対してリリーは真っ向から反論する。「あんた、馬鹿じゃないの」と。そんなのは格好をつけているだけで、ちっとも格好よくなんてないんだと。そんなのは臆病で卑怯なだけだと。恋愛なんて、本来みっともないものなんだと。その言葉には「男なら逃げずにちゃんと愛してると言ってよ」という、リリー自身の思いが滲み出している。
その痛烈な批判は、『寅次郎の青春』の時にも書いたように、僕がずっと思っていたこと、そのままだった。この最後の作品において、山田監督は寅さんの恋の美学の欠陥を、マドンナの口を借りて、真正面から非難してみせた。これが画期的でなくてなんだろう?
そんなリリーの発言を受けて、物語はこれまでの作品とは大きな変化を見せる。満男は自分に会うために奄美大島へとやってきた泉に対して、自らの思いを素直に告白することになる。そして最後には寅さん自身も、ちょっとひねくれた態度をとりながらも、初めてマドンナへの好意をはっきりとした行動で示してみせることになるのだった。
そう、この作品では寅さんも満男も失恋しない。二人の恋はきちんと実を結んで終わる。最後に寅さんはリリーと喧嘩をして、再び旅に出てしまうことになっているけれど、誰もそれを失恋とは呼ばないだろう。ついにこの作品において、寅さんの自滅的な失恋歴にも終止符が打たれたのだった。こんな見事な大団円が考えられるだろうか。
渥美さんの他界によって企画段階で中止になってしまった次回作では、満男たちの結婚式が描かれる予定だったという。それを見てみたかったという思いは当然ある。でも僕はこの作品でシリーズに幕が降りたというのは、やはり運命だったのではないかと思う。このあとにどういう作品を作ったとしても、これ以上にとりを飾るにふさわしい作品が作れたとは思えないから。それどころか、渥美さんの病状によっては、もしかしたらこの作品が撮られないで終わった可能性だってあったわけだ。それを考えれば、最後の最後になって、よくぞこれほどの作品を撮ってくれたと思う。
ラストシーン、リリーのもとを飛び出した寅さんは、再び神戸を訪れる。彼は震災から一年後の神戸で、その土地の人々と笑顔を交わしあっている。シリーズが終わったいまでも、彼はそうやって日本全国を巡って歩いているような気がする。おそらく寅さんの旅はまだまだ続くのだろう。僕ら日本人が映画を見続けるかぎり、きっといつまでも──。(おしまい)
(Feb 11, 2007)